水樹奈々の自伝エッセー『深愛』を読んだ

水樹奈々著『深愛』(幻冬舎)を読んだ。今年のはじめ(2011/01/21)に発売された彼女の自伝エッセーだ。

自伝の部分を通読して分かるのは、父親にとびきり厳しく育てられた娘は、真面目で、自罰的で、自分の父親を理想の恋愛対象と考えるファザコン女性に育つという典型例だということ。
そうして育てられた娘にとって、異性は肉体もつ生身の人間というより、理念的な存在になるので、恋愛感情と身体的な関係はまったく別のものとして認識される。
したがって、彼女の最初の身体的な体験が、中学を卒業してすぐ親元を離れ、生活し始めた東京の満員電車での痴漢だったことから、身体的な接触が不愉快な感情としか結びつかなくなったのも無理はない。
その後、事務所の社長であり「先生」である男性の家に住み込みながら、演歌歌手になるべくレッスンを受けているときに、日常的にセクハラを受けても、自罰的に反応すること、つまり「無感情」という反応しかできなくなるのも、仕方のないことだ。
そしてその事務所との契約を何とか打ち切って、キングレコードの現在のプロデューサの下で活動を始めたとき、そのプロデューサが彼女の「売り」を、1980年代アイドル以上の不可侵な処女性とするのも、性的なものに対する彼女の自罰的「無反応」という時期があったからこそだろう。
水樹奈々が30歳を過ぎてもフリフリの衣装で歌い続けることができるのは、いまだに彼女にとって最も理想的な男性が、すでに亡くなった父親であり、その恋愛感情と全く無関係なところに、身体的な性愛の関係が未発達のまま残されている「ように見える」からだ。
これくらいアニメファンにとって理想的な声優であり、歌手はいないように思う。
いわゆる非リア充の(=実生活が充実していない)男性にとって、理念的な恋愛と身体的な恋愛を、ひとまず分離して向き合える「処女性」のあるアイドルは理想的だ。
また、非リア充の女性にとっても、不愉快な部分を拭い去れない身体的な恋愛を、理念的な恋愛と分離している「処女性」のあるアイドルは、感情移入しやすい。
もちろん実生活が充実し、恋愛感情と肉体関係が何の違和感もなく一致しているリア充な人たちから見れば、30歳を過ぎてフリフリの衣装で、舞台を駆けまわりながら歌う水樹奈々は、浜崎あゆみや倖田來未と比べると、ただ単に「キモい」。
水樹奈々の棲むサブカルチャーで非リア充な社会と、そうでないメインカルチャーのリア充な社会に、少なくとも僕が知っている限りの日本の社会が大きく分断されていることには違いない。
ただ、今まではたしかにメインカルチャーは文句なくメインカルチャーたり得たけれど、実際にはメインカルチャーを支えていた経済的中間層の共通の価値観のようなものは、すでに崩壊している。
エイベックス的歌姫とそのファンたちの形成する社会も、いまや一つのサブカルチャーに過ぎない。エイベックスという会社も、浜崎あゆみも倖田來未も、まだそのことを理解していないけれども。
その点、水樹奈々が今でも「演歌歌手になる」というデビューの出発点にあった動機付けを捨てていないことは象徴的だ。つまり演歌歌手とそのファンが形成する社会もまた、サブカルチャー化しているのである。それは同性愛者の氷川きよしがオバサンのアイドルに祭り上げられていることからも分かる。
以上のような意味で、水樹奈々の『深愛』という自伝エッセーは、それほど意外性のある内容ではなく、「なるほどやっぱりそうか」と、いちいち納得させられる事だけが書いてある。
むしろこの納得性というか、普段から見ている水樹奈々のイメージとの一貫性こそが、今の水樹奈々の地位をもたらしていると言える。
彼女が本書の中で、セクハラやいじめ体験を告白していることを、売名行為だと非難する人がいるようだが、「売名行為をしないアイドル」というのは言葉の矛盾だ。
一貫性のあるイメージに沿って、私生活を切り売りすることも、アイドルにとっては芸能活動の一部なのであって、本書を「売名行為」だとか、「悲劇のヒロインぶっている」とか、「下積み時代の話で同情を誘おうとしている」などと非難する人は、魚屋にアジが売っていることに文句をつけているのと同じで、まったく無意味なことをしている。
もし水樹奈々がこのまま、今は亡き父を理想化しつづければ、もしかすると小森まなみのように50歳を過ぎ、声帯に限界が来るまで、フリフリの衣装で舞台に立ち、声優をし続けられるかもしれない。
それは、平々凡々たる生活を送っている人間には望むべくもない、何て素晴らしい人生だろうか。