藤井誠二著『殺された側の論理』を読んだ

藤井誠二著『殺された側の論理』を読んだ。

文庫化されるということで藤井誠二さんご自身がツイッターで宣伝されておられたので、アマゾンで単行本の古書を入手して読んでみた。以下「犯罪被害者」は「犯罪被害者とその遺族」の意味とする。
通読してみて、国家による犯罪被害者の保護や補償制度があまりに手薄であることを、改めて認識した。犯罪被害者は基本的に「泣き寝入り」するしかない。それどころか、マスコミや近所の人々の好奇の目や偏見にさらされることもある。
このあたりは、以前、性犯罪の被害者についての本で、すでに知っていることだった。
ただ、一国の刑法を、犯罪被害者の観点を最優先にして抜本的に見直すことには、僕は反対だ。
近代刑法は結局のところ、人間の作り上げた偉大なるフィクションだ。
人の犯す犯罪は、もちろん直接的には被害者に害をおよぼすが、それを放置すれば他の国民も同じような被害を受けつづけ、最終的には国家の存立そのものを危うくする。だから犯罪者は被害者に代わって国家が罰することにしよう。
ざっくり言うと、そういう完全に人工的な約束事の上に、近代刑法は成り立っている。近代刑法のこのような犯罪観が、人類の歴史上、唯一正しい考え方でもないし、最善の方法でもない。
しかし、現代日本に生活する僕らは、犯罪と刑罰についてこういう考え方を受け入れる代わりに、一定の安全性のある生活を享受している。
その近代刑法的な考え方の中で、たとえば殺人に対してどれくらい重い罰を与えるかは、これも純粋に人工的な制度設計の話である。
どういう行為が、どのくらい重い罪と定義されるかは、国によって違う。
一つの国家が刑罰の制度を設計するにあたっては、一定の手続きが定められている。極端な例では、独裁者の鶴の一声で決まるかもしれないし、より民主的な手続きで決まるかもしれない。
日本のような民主主義国家では、一応、立法府に選挙を通じて国民の意見が反映される手続きが存在する。司法は行政機能の一部なので、立法府によって監視されることになっている。
つまり、どういう行為が、どれくらい重い罪と定義されるかは、唯一の正しい論理が存在するわけではなく、日本では民主主義的な手続きを通じて人工的に決まる。
こうした近代刑法の基本的な考え方に対して、藤井誠二氏の上掲書は、犯罪被害者へのさまざまな補償制度の拡充をうったえるのに、適切な手法をとっているか、かなり疑問だ。
というのは、藤井誠二氏が犯罪被害者の感情の側面に、注目しすぎているからだ。
近代刑法は、上記のような基本的な考え方から、国民が私的に犯罪者を処罰することを禁じ、犯罪者の処罰をすべて国家が行なうという約束事である。
犯罪被害者が「やられたらやりかえす」という怨念を持つのは当然だが、犯罪被害者へのさまざまな補償制度の基礎になるのは、そういった報復原理では決してない。
ところが本書は、まるで犯罪被害者の「仇討ち」願望、報復の願望を理解することが、犯罪被害者へのさまざまな補償制度の拡充の「第一歩」であるかのように読める。
これは明らかに違うだろう。
犯罪被害者のみなさんが補償されるべきなのは、近代法の「人工的な」約束事からすれば、その被害が国家にとって損失になるからであって、それ以外の理由はない。
犯罪によって経済的に困窮したり、マスコミの過剰報道の犠牲になったり、地域社会から疎外されたりすることで、逆に刑法が目的としている社会の安定や秩序が失われてしまう。
だから犯罪被害者のみなさんをきっちりフォローする必要があるのであって、それと報復感情にどのように対応するかは、別の議論にすべきだ。そうでなければ、仇討の時代に逆戻りするだけである。
犯罪被害者のみなさんの報復感情は、補償の一部のケアとして提供されるべきもので、藤井誠二氏の議論では、それと犯罪の重罰化や死刑の存置が結びついているように読める。
犯罪の重罰化が必要かどうか、死刑制度を存置するか廃止するかは、犯罪被害者の仇討を国家が代行すべきかどうかの議論ではなく、刑罰が社会におよぼす影響の議論だ。
犯罪者と犯罪被害者は、直接対峙するのでなく、飽くまで社会というフィクションを経由して対峙するのが、近代の根本的な約束事である。
もちろん、犯罪被害者のみなさんにとっては、死刑を存置した方が、プラスの影響が大きいのは当たり前のことだ。ただし、ここだけに焦点を当てれば、死刑廃止などありえない話になり、死刑制度の議論全体が瞬時にナンセンスになる。
たとえば死刑廃止論者が、えん罪の可能性を持ち出すのは、「国家による殺人」の犯罪被害者を一人でも生みだすまい、という考え方があるからであって、犯罪被害者の無念さや報復感情に無神経なわけではない。
あたかも死刑廃止論者(特に弁護士)たちが、犯罪被害者の心情に無理解な、非人間的な人たちであるかのような印象を与える本書は、近代刑法の原理を、報復感情に還元してしまっているような印象を与える点で、議論を著しく単純化しているという誤解を生みはしないか。
単純な議論は、たしかにわかりやすい。犯罪者より犯罪被害者が苦しむような社会は誰も望まない。だからといって、その問題の解決策を、犯罪被害者の「仇討ち」的な報復感情からスタートして論じるのは、方法論として間違っている。
くり返しになるが、私的報復を否定し、全ての犯罪者を国家が代わりに罰するという近代刑法は、決してパーフェクトな制度ではない。
しかし、今のところこの制度が、国民がある程度安全な生活を送るのに、最悪でないにしても、いちばんましな制度なので、単に一つの約束事・フィクションとして受け入れられているにすぎない。
江戸時代の「仇討ち」に逆戻りし、「私刑」を容認すれば、たとえば人違いで別人を殺してしまったり、仇討ち請負人(必殺仕事人?)が金儲けの手段になったり、仇討ちが新たな仇討ちを生み出したり、少なくとも今よりはめちゃくちゃな社会になる。
さらに言えば、何の必然性もなく、突然、命を奪われ、その理不尽さに苦しむのは、殺人事件の被害者だけではない。東日本大震災などの自然災害の犠牲者も同じだ。
自然災害による死と、人間の手による死では全く違うという考え方は、ある倫理観からすれば正しく聞こえるが、別の倫理観からすればとんでもなく聞こえる。災害で死んだ人間の命は、殺人犯に殺された人間の命よりも軽いのか?等々。
たとえば、自然災害は人間の努力で防げるが、殺人は防げないという理屈もおかしい。社会が殺人を減らす努力をあきらめてよいはずがないからだ。
自然災害によってであれ、殺人によってであれ、不治の病であれ、その他のどのような原因によってであれ、人間の命は多くの場合、近しい人たちにとっては「理不尽」に失われる。
そして遺族の方々はその理不尽さに対する怒りをどこにぶつければいいの分からず苦しむ。それら失われた命や、遺族の方々の苦しみに、どのように軽重をつけても、これという正解はなく、必ず恣意的になるのではないか。
だとすれば、遺族の感情というところから、犯罪や死に関する現状の社会制度が適切かどうかを論じるのは、やはり筋が違う。
いずれにせよ、本当に犯罪被害者への補償を拡充するなら、あまり感情にうったえる書き方ではなく、現行の各種制度の不備を、技術論的に細かく掘り下げる方法でなければ、藤井氏が本来意図している結果を生み出せないような気がするのだが。
なんだか僕個人としては、釈然としない読後感だった。