風評被害とコミュニケーション

日経ビジネスオンラインに、久しぶりにツッコミどころ満載の記事を見つけたので、かなり長くなるが、検証してみたい。
2002年東京大学経済学部卒、政策研究大学院大学助教授の安田洋祐氏による『風評被害はこうすれば解消できる~「情報の経済学」で買い控え問題を読み解く』(2011/08/22)というコラムだ。
このコラムは、東日本大震災以降の風評被害を、生産者と消費者の間の情報の非対称性で説明しようというものだ。まずコラムの議論を要約する。
ある食品が放射線に汚染されておらず安全だと生産者は知っているが、消費者にはその情報が伝わらず、そのためその食品が売れない、という状況があるとする。
そして、自分の作った食品が汚染されていないと知っている生産者Aと、汚染されていると知っている生産者Bがいるとすると、4つのパターンの情報伝達が起こりうる。
【1】
生産者Aも生産者Bも「うちの食品は安全です」と言うだけで、その情報発信に全くコストをかけない場合、正しい情報が消費者に伝わらず、風評被害はなくならない。
【2】
生産者Aが「うちの食品は安全です」と言いつつ実際に食べてみせ、情報発信に「コスト」をかける場合、生産者Bは実際に食べてみせてまで情報発信しない可能性が出てくるので、正しい情報が消費者に伝わる可能性が出てくる。
【3】
コストをかけずに食品を検査機関で検査してもらえる場合、生産者Aにも生産者Bにも検査を依頼してその結果を情報発信する動機付けが生まれる。生産者Bの中でも、汚染レベルがより低い生産者は、低いことを伝えたいからだ。結果として正しい情報が消費者に伝わる。
【4】
食品を検査機関で検査するのにコストがかかる場合、生産者Aも生産者Bも、自分の食品が汚染されているか否かとば全く別の経済的事情で、検査を依頼できず、結果として検査結果を情報発信できたりできなかったりする。結果として正しい情報が消費者に伝われない可能性が出てくる。
以上のことから筆者は、政府や自治体が検査コストを負担すれば、【3】の状態となり、正しい情報が消費者に伝わり、風評被害はなくなると結論づける。
このような安田洋祐氏の議論は、社会におけるコミュニケーションについて、きわめて素朴な主体主義にとどまっている。社会においてコミュニケーションするのは、個々の人間だという、あまりに素朴すぎる前提にとどまっている。
現実には、社会においてコミュニケーションするのは、人間ではなくコミュニケーションである。

たぶん意味がよくわからないと思うので、ていねいに説明してみる。
上記の例で生産者が消費者に情報発信する場面を思い浮かべてみよう。テレビを通じてでも、説明会場のような場所でもかまわない。
その時、消費者が生産者の発信する情報を信じるかどうかが、何によって決まるかを考えてみよう。
安田氏の考えるもっとも好ましいシナリオである【3】の場合であっても、例えば消費者は、疑おうと思えば、いくらでも疑わしい点を見つけ出すことができる。
たとえば、生産者が食品を検査に出すとき、本当に自分の生産した食品を出したか、また、検査機関は本当に中立なのか。
逆に言えば、生産者の情報を消費者が信じる、という事態が成り立つには、生産者と消費者の間のコミュニケーションをとりまく無数の要素が、その信頼を支えていなければならない。
では、その信頼を支えるものは何だろうか?
たとえば、消費者が生産者の誠実さを信じるためには、生産者と消費者の間にあらかじめ何らかのコミュニケーションが起こっている必要がある。
それは直接でなくてもいい。昔、その生産者が作った食品を食べたことがあるとか、その生産者のテレビCMを見たことがある、などでもいい。
また、消費者が検査機関の中立性を信じるためには、検査機関と消費者の間にあらかじめ何らかのコミュニケーションが起こっている必要がある。
これも直接でなくていい。その検査機関のウェブサイトを見たことがある、検査機関に同じ大学の先輩が勤務している、などでかまわない。
つまり、生産者と消費者の間に、「信頼」という価値をもつコミュニケーションが成り立つには、そのコミュニケーションは無数の別のコミュニケーションに支えられている必要があるのだ。
もっと言えば、生産者と消費者の間にコミュニケーションが成り立つには、別のコミュニケーションがすでに成り立っている必要がある。コミュニケーションを成り立たせるのは、先行するたくさんのコミュニケーションなのである。
よく考えてみよう。消費者は単独で、生産者とのコミュニケーションが信じられるか判断できるわけではなく、それ以前に経験したたくさんのコミュニケーションを手がかりに、判断するしかない。
仮にその消費者が、今まで何度もくり返し、検査機関や生産者にだまされていたとしたら、今さら検査機関や生産者の言うことを信じられるだろうか?
このように、先行するコミュニケーション群は、その後に起こるコミュニケーションが成立するための要件になっている。
人間と人間が出会うだけでは、そこに無意味な記号のやりとりは生じるかもしれないが、それ以上のものは何も生じない。
人間と人間が出会ったとき、意味のある、つまり、「信頼できる」などの価値を帯びたコミュニケーションが成り立つには、先行するコミュニケーション群があらかじめ起こっていなければならない。
これが、「社会においてコミュニケーションするのは、人間ではなくコミュニケーションである」ということだ。
賢明な読者はすでにお気づきのように、あるコミュニケーションが成り立つには、先行するたくさんのコミュニケーションが必要だということは、それら先行するコミュニケーションが成り立つためには、さらに先行するたくさんのコミュニケーションが必要で、さらに…という具合に、この先行関係は無限につづくことが分かる。
このことは、皆さんの実感にとても近いと思う。
僕らはこの世に生まれるとすぐに、いきなりたくさんのコミュニケーションの中に放り出される。
それ以来、大人になるまで、それぞれに経験してきた無数のコミュニケーションが、あなたが今、誰かと交わすコミュニケーションを成り立たせる条件になっている。
むしろ社会における主役はコミュニケーションであって、特定のコミュニケーションの組み合わせの結果が、あなたという人間であると言えなくもない。ちょうど無数の塩基配列が、あなたという人間のDNAになっているように。
さて、そうすると、安田洋祐氏のように、情報の経済学の数理モデルを利用するだけでは、風評被害を解消することなど、とうてい出来ないことがすぐに分かる。
なぜなら、情報の経済学の数理モデルには、重大な欠陥があるからだ。その欠陥は大きく2つ指摘できる。
(1)「風評被害」というコミュニケーションを、先行するコミュニケーションから切り離して、単独で考察しさえすれば、「風評被害」を解消できるという誤った考え方をとっている。これを専門用語で「要素還元主義」と言う。
(2)コミュニケーションが成り立つのは、生産者と消費者の「間」であるのに、送り手である生産者を、受け手である消費者から切り離して、単独で情報の立証可能性と情報伝達コストを考察しさえすれば、消費者にそのコミュニケーションがどのような結果をおよぼすか予見できるという前提に立っている。これも「要素還元主義」だ。
このような2つの「要素還元主義」、つまり、本来は全体のつながりの中で考えるべきものを、バラバラの要素に分解するだけでなく、それらの要素のうち、一部分(ここでは生産者側)の問題だけを解決しさえすれば、全体(ここでは「風評被害」)が解消するという、完全に誤った考え方をとっている。

そのため、安田洋祐氏が提供している解決策は、およそ解決策になりそうにないものとなっている。
現に皆さんは、政府や自治体が放射線測定のコストを肩代わりしさえすれば、食品の放射線物質による汚染についての「風評被害」が解消したり、軽減されたりすると思われるだろうか。
東日本大震災以来、僕も含めて、今までどれだけ政府の発表や、東京電力の発表、また、大震災の前にさかのぼって、食品の現産地偽装など、食品の安全性について何度だまされてきただろうか。
それらの先行するコミュニケーションが、いま僕らが直面する「風評被害」を成り立たせているのである。
いま問われているのは、政府と国民、政府と企業、政府と食品生産者の間の、長い時間をかけて失われた信頼関係を取り戻すには、これからどのようなコミュニケーションを積み重ねていかなければいけないか、である。
「風評被害」をいくつかの要素に分解して、その一部に改良を加えれば一丁あがりといった、簡単な状況に置かれているわけでは決してない。

風評被害とコミュニケーション」への1件のフィードバック

  1. 迷宮攻略

    武田教授が「東北の農作物は健康壊す」発言…

    真っ当な事を言えば叩く。それが東北人。少量でも蓄積されるだろと。もう半年経つのに全くいつまで被災者を盾にするつもりだ?災害とは別問題だろ。青森だけは風評被害だと文句言っ…

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