森達也監督『A2』:人工物としての「信仰の自由」

森達也監督のオウム真理教についてのドキュメンタリー映画『A2』(2001年公開)を、ニコニコ生放送のタイムシフトで観た。上祐史浩が出所した1999年前後のころの、各拠点の信者たちを、主に信者の側から撮影したものだ。

この映画では、信者たちの日常生活が意外なほど淡々としていること。むしろ彼らに対する警察、右翼団体、追放運動をする地域住民の行動の異様さを、たくみにあぶり出している。
もちろん監督の森達也氏は、教団が組織的に起こした凶悪犯罪をゆるしているわけでは決してない。
逆に森氏はこの映画の最後で、被害者からの賠償請求に応じるなど、教団が態度を軟化させているのは、逆に過去に対する欺瞞ではないかと、信者を問い詰めている。
森達也氏がそこまで信者に率直な物言いができるのは、この映画の撮影を通じてオウム信者たちとの距離を縮められたことと、そして、オウム真理教という組織が、じっさいには部活の延長線のように未熟であることがあるだろう。
その意味で、この映画全体は、森達也氏にしか追及できなかった、オウム信者たちに対する根本的な問題提起といえる。
ところで、過去に凶悪犯罪を犯したオウム真理教にさえ、日本国憲法第二十条の「信仰の自由」は保証される。
オウム真理教の地下鉄サリン事件を見て、新興宗教をすべて反社会的でいかがわしいものととらえ、「信仰の自由」自体を否定的に考えるのは、完全に間違っている。

ただし、その「信仰の自由」とは、社会から遊離した抽象的な概念ではなく、日本国民にとっては、あくまで日本国憲法と、日本国の法律の枠内の概念でしかない。
したがって、オウム真理教に限らず、すべての宗教団体は、日本の法律に従わなければ「信仰の自由」も保証されない。たとえ今の日本の法律にいろいろな不備があっても、である。
これは一見当たり前のことのようだが、「信仰の自由」が人類の歴史の中では比較的新しい発明であり、時間をかけて作り上げてきた社会の決まりごとであることを忘れてはいけない。
たとえある宗教がその教義の中で、「現世」のいかなる法律も認めないと宣言しても、現実に法律に反する行為をすれば、その社会の定める手続きにしたがって処罰される。
「信仰の自由」は日本の法律があるからこそ存在するのであって、日本の法律を逸脱し、かつ、「信仰の自由」が保証されるという状態は存在しない。
オウム真理教だけでなく、オウム真理教の反対運動を行ういかなる日本国民も、同じように日本の法律に従う必要がある。
この映画で、オウム真理教の信者たちより、彼らをとりまく市民や右翼団体、警察が「滑稽」に見えるのは、これらの人たちが、オウム真理教のような「犯罪集団」に対しては、日本の法律など無視して、国家に代わって「私的」な罰をあたえてもいいのだという、とんでもない勘違いをしているように見えるからだ。
オウム信者は悪いやつらで、一般市民は善良、という善悪二元論を、素朴に信じている人たちがいるかもしれない。
そういう人たちは、社会にとって誰が「悪い」人間で、誰が「良い」人間かは、憲法や法律のような、それら自体、人間の作り上げた社会の約束事として決まっているに過ぎないことを、たぶん分かっていない。
社会における善悪は、単に社会の約束事として、憲法や法律などのかたちで決まっているだけの「人工物」であり、永遠普遍の真理として決まっているのではない。
もちろん人間は、普遍的な「善」「悪」の概念について考えることもできるが、それは哲学の仕事であり、現実の社会をまわす制度をつくるのとは別次元の話だ。
一つの社会の中で、異なる善悪の主張がお互いに矛盾する場合は、これもその社会が定めた手続き、つまり裁判などにしたがって調停するしかない。
そこで考えたいのは、この映画の最後で森達也監督が、なぜオウム真理教の幹部に「大人しい宗教団体に変わるだけで、過去を精算したことになるのか?」と問い詰めているのか、という点だ。
森達也氏自身、自分がオウム真理教に何を期待しているのかよくわからないと告白している。
ただ、おそらく森達也氏はオウム真理教に、教義を変えることを期待しているわけではない。森達也氏の中では、社会への適応に二つの段階が分けられているように見える。

一つは「信仰の自由」自体を成立させている、日本国の憲法や法律への適応。この適応ができなければ、宗教団体は「信仰の自由」を自己否定することになる。
地下鉄サリン事件はこの適応を拒否した結果であり、この事件の実行主体としてのオウム真理教は、もはや日本社会においては宗教団体ではなく、犯罪組織になってしまった。「信仰の自由」を自ら否定してしまったからだ。
もう一つの段階は、山本七平の言うような意味での日本的な空気の支配する社会への適応。文脈依存性の高い(=言外の含みが多い)コミュニケーションや、みんな同じでなければいけないという同調圧力の強い、日本的な社会への適応だ。
オウム真理教がいかにも日本的な社会へ適応してしまったら、同じ過ちをくり返すのではないか。森達也氏の危惧はおそらくここにある。
つまり、日本的社会への適応を拒否する人々や、そこからドロップアウトした人々が、別の価値観を求めてオウム真理教に入信している。なのに、そのオウム真理教が日本的社会への適応を目指してしまえば、信者の一部がオウム真理教からもはじき出されるおそれがある。
そうなると、教団からもはじき出された信者たちが、かつてテロ集団へ先鋭化していった道と同じ道を準備することになってしまう。
その意味で、逆説的ではあるが、宗教団体はいたずらに日本的な社会の「空気の支配」や「同調圧力」に適応するのではなく、その「信仰」に忠実である方が、かえって社会にうまく組み込まれる、ということになる。
森達也監督はオウム真理教のある種の「世俗化」に、直感的にこのようなことを危惧していたのではないか。
いずれにせよこのドキュメンタリー映画は、ナレーションもなく、劇的な演出もなく、現場で撮影した素材を秀逸な編集でつないだだけだが、2時間15分があっという間に感じられる秀作である。

森達也監督『A2』:人工物としての「信仰の自由」」への1件のフィードバック

  1. ソレデ本当ニ最期ニ笑ッテクタバレルノカ若者ヨ

    フツーの市民でいる皆様。あなたのほうが異常です。映画『A2』

    オウム真理教と共にあった森達也さんの伝説的ドキュメンタリー。
    Aシリーズの2作目。映画『A2』
    ★★★★★
    『A3』森 達也・著 集英社インターナショナル via kwout
    このブログで森さん …

コメントは停止中です。