中島美嘉ツアー、商業主義的妥協を打ち消す存在感

今日、神奈川県民ホールの中島美嘉コンサートに行ってきた。
実は今まで行ったことのあるJ-POPのコンサートは、柴田淳、alan、中島美嘉の3人と、a-nationに3回だけ。
今日、初めて中島美嘉のコンサートを見て思ったのは、舞台のセットや演出の完成度が、申し訳ないが、柴田淳やalanとレベルが違うということだ。

会場の収容人数は、僕が柴田淳を見た神戸国際会館、alanを見た人見記念講堂、今日の神奈川県民ホール、いずれも2,000人クラス。
同じ規模の会場として見比べると、もちろん制作費の差が直接現われているのだろうが、中島美嘉のコンサートは一つひとつの段取りが絵になっている。
中島美嘉本人がきっちりMCとして進行ができるということもある。コンサートの中盤、予想以上に長いMCでの観客との掛け合いは、テンポがよく、ほとんど漫才のノリ。エンターテイナーとしての彼女の素質は、柴田淳やalanと比較にならない。
そもそも中島美嘉との比較対象として、柴田淳やalanが適切ではないことは重々承知で書いている。
ただ、今日の中島美嘉の歌唱力だけに注目すると、残念ながらまだ休養の影響が色濃く残っていると言わざるを得ない。特に気になったのは中低音域の地声の音程が非常に不安定なことと、一つひとつの音符の表現が平板なこと。
高音の裏声のビブラートは、以前と変わらず冴えていただけに、中低音域の不安定さは本人には申し訳ないが、ほぼ聴くに耐えないレベルだった。
この点は、alanの歌唱力がいかなる場合でも絶対的な安定性を保っているのとはっきり違う。やはり、alanはポピュラーの歌手というより、解放軍芸術学院で声楽の英才教育を受けた「声楽家」と呼ぶべきなのだろう。
中国大陸でのalanに対する評価も、alan自身の歌に対する姿勢も、J-POPの商業主義とは無縁のようだ。芸術として一定の水準に達していれば、CDの売上枚数など関係ないという考え方が根底にある。
YouTubeで、いつも英語でメールをやりとりしている中島美嘉のコアなファンがいるのだが、彼は今の彼女の声の状態は最悪だと書いていた。おそらくデビュー以来、最も悪い状態という意味だろう。
それは中島美嘉本人がいちばんよく分かっている現実だと思う。
今回のツアーは、昨年秋の東京・大阪公演を含めると、すでに2度延期していることになる。僕がチケットを買った神奈川県民ホールも、本来は5月だった公演が延期されたものだ。
声がまだ安定しない状態でも、興行的には開演しなければならない。それが商業音楽としてのJ-POPであり、中島美嘉自身、自分が「単なる」商業音楽の歌手であることを誰より自覚しているはずだ。
商業音楽は制作費に見合う売上がなければいけない。赤字を出してまで完成度を追求するのは、商業音楽という前提と矛盾する。なので、声の調子がいくら悪くても、3度目の延期をする選択肢は中島美嘉に存在しなかったに違いない。
商業音楽の担い手が、そういう酷な選択を、ときに味わう必要があるという現実を引き受けられるかどうか。それが商業的に成功するかどうかの分岐点かもしれない。
もちろん、商業的に成功しなくても、自分の信じる音楽を追求するというやり方もあるだろう。
僕がよく、alanのCD売上が映画『レッド・クリフ』の主題歌、『久遠の河』のヒットにもかかわらず、ずっと伸び悩んだことについて、特に中国のalanファンと意見を交わす中で思い知らされたのは、この点の認識の違いだ。
J-POPの商業音楽としての側面、つまり、ビジネスとして成立させるためには、時にかなりの妥協もせざるをえないという現実を理解できない人たちと、いくら議論しても平行線になる。
彼らは芸術的に素晴らしければそれでよい、歌手本人が完成度に満足していればそれでよい、と考える。台湾や香港と違って、中国大陸における流行歌は、僕ら日本人が思っている以上に、非商業主義的なクラシック音楽に近いのだろう。
しかし、中島美嘉のように商業的に成功しようと思えば、そうした理想主義、芸術至上主義だけでは無理だ。担い手自身が抱く後ろめたさこそ、商業的成功の必要条件だろう。
長々と書いてしまったが、実際には今日のコンサートを十分に楽しんだ。柴田淳やalanのコンサートでは味わえない爽快感や、我を忘れて演出に夢中になる感覚を味わうことができた。
こういう曰く言いがたいものを、「存在感」や「カリスマ性」と言うのだろうが、中島美嘉は確かにそういうものを持っている。