堀義人の限界:原発事故のリスクを計算可能とする根本的誤り

孫正義と堀義人のニコニコ生放送対談全文書き起こしを読んだ。
「孫正義×堀義人 対談全文書き起こし」(2011/08/06 22:24 ニコニコニュース)
最期まで読んで、堀義人氏は原発事故のリスクと、例えば火力発電所事故や原油流出事故、津波などのリスクが、本質的に別ものであることを、まったく理解していないと思った。
もちろん孫正義も両社の違いを理屈で理解しているわけではないが、何度も「不安」という言葉を口にすることで直感的にわかっているだけ、堀義人よりもまだましだ。
自然環境にはじめから存在する以上の放射線が、広島の原爆であれ、冷戦時代の各国の核実験であれ、チェルノブイリや福島の原発事故であれ、環境に拡散した場合、人間の生命にどれくらいの影響が出るのか、確定的なことはまだ誰にもわかっていない。
ちょっと考えれば、これは当たり前の話だ。
人間が核分裂のエネルギーを、武器にせよ平和な目的にせよ利用し始めてから、まだ100年もたっていない。
つまり、自然環境にはほとんど存在せず、人為的に作り出された放射性物質、例えばセシウム137が、自然環境に拡散してから、半減期3回分程度の時間しかたっていない。
チェルノブイリ事故もたった25年前の話で、放射性物質の半減期というタイムスパンから見ると、人類がその影響を確信を持って予測するのに十分な時間がたっているとは言えない。
たとえば、今回の地震で津波によって亡くなった方々は、皮肉なことだが、すでに亡くなっているので、その人数の統計をとることで、津波のリスクの大きさを、確定した数値をもとに計算できる。
しかし、今回の福島第一原発事故が原因の放射線が直接の原因で亡くなった方は、幸いなことに一人もいない。
堀義人は、原発事故による死亡者が、火力発電所の事故による死亡者より少ない事実や、原発事故が環境に与えている影響が、原油流出事故が環境に与えた確定的な被害より小さいことをもって、原発について冷静な議論を呼びかけているが、こういう考え方は180度誤っている。
逆に、原発事故では急性放射線障害による死亡者数が「確定しない」からこそ、また、自然環境に与える影響がすぐには「確定しない」からこそ、リスクがあるのだ。
何かの事故が発生した後、死亡者数や環境被害が、遅くとも数年内に「確定する」ような事故と、それらが100年たっても「確定したと言えない」事故とでは、リスクの考え方を変える必要がある。
その意味で、原発事故は、火力発電所の事故や、最近の例では高速鉄道の脱線事故などといった事故とは、全く別の種類のリスクをもっている、と考えるべきなのである。
ところが堀義人は、原発事故のリスクを、火力発電所の事故によるリスクや、原油価格が急騰した場合のリスク、日本の食料自給率がゼロになった場合などのリスクと、同じリスクとして比較している。
例えば、日本の食料自給率がゼロになった場合のリスクは、極端な例を出せば、自給率がゼロでも生活できるところまで、日本の人口が減った時点で、そのリスクの大きさが確定する。もちろんそうなる前に、インフレや戦争が起こるかもしれないが。
そのように、ある事故を原因とする被害を予測が、短期的に実証できるような事故は、人間がコントロールできる事故であると言って良い。
被災者の方には申し訳ないが、例えば今回の大震災での津波による死亡者数は、すでに確定している。したがって、将来同じ規模の津波が起こった場合に、「減災」する対策を予測計算によって立てることができる。
一方、今回の大震災での福島第一原発事故による死亡者数は、いつになったら確定したと言えるのか、そもそもどこまでが原発事故によるものだと言えるのかさえ、人間は確定することができない。
このように、津波のような、あらかじめ立てた被害予測を、事後に確定的に検証できる事故と、あらかじめ被害予測をしても、100年、200年たたないと確定的に検証できないどころか、検証する方法さえ社会的な合意がとれていない原発事故のリスクは、全く別の種類のものである。
この両者を、堀義人は混同している。意図的に混同しているわけではなく、堀義人は、リスクについて、事後的に検証可能なリスクという概念しか持ち合わせていないと思われる。
仮に堀義人が、事後的に検証不可能なリスク、または、検証可能性についてさえまだ社会的な合意がないリスク、という概念を持ち合わせていれば、彼ほど頭のいい人間なら、原発事故のリスクと、火力発電所事故や原油流出事故のリスクを、別ものとして議論するはずだ。
つまり、堀義人の議論は、原発事故のリスクを、はじめから広い意味で「計算可能な」リスクと見なしている時点で、すでに不適切である。
孫正義は、彼が直感的につかんでいる両者の違いを、くりかえし堀義人に反論しているのだが、堀義人は全く理解できていない。
たとえば孫正義は次のように言っている。
「いや、僕は『恐らく大丈夫』という、その『恐らく』がポイントなんです。結局、誰も大丈夫だと言い切れないではないか。今から20年、30年経たないと分からないではないか」「素人だけど私は私で信じることを一生懸命言う」 孫正義×堀義人 対談全文書き起こし(6)
これに対して、堀義人は次のように答えている。
「孫さんの仰る通りで、その部分というのは誰もが断定できないかもしれない。ただし今度は考えなければならないのは、危険性が高いといって1ミリ(シーベルト)とか2ミリシーベルトによって避難をさせてしまうコストのほうが大きいわけです」(同ページ)
孫正義の言っているのは、原発のリスクは計算不可能だ、ということなのに、堀義人はそれに答えて早速コスト計算をしてしまっている。
孫正義と堀義人のどちらが、原発事故についてより本質的なとらえ方をしているかと言えば、残念ながら(?)孫正義の方だろう。堀義人はあくまで今までの自分自身の指向枠組みの中で、計算可能なリスクを有するものとしてしか原発事故を考えていないからだ。
以上のように、僕としては孫正義の議論の方が、より広い射程をもっていると考える。