原発については両論併記、信じがたい広島の「平和宣言」

今朝、広島の平和記念式典の生中継を見て、広島市長の平和宣言に注目していたのだが、事前の報道どおり、原子力の利用については両論併記で失望した。
「平和宣言」(2011/08/06 広島平和記念資料館WebSite)
上記のページに全文が掲載されているが、該当部分を引用する。
「また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放射線の脅威は、被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対する国民の信頼を根底から崩してしまいました。そして、『核と人類は共存できない』との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます」
まず明らかにおかしいのは、「原子力管理の一層の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々」は存在するが、「脱原発とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々」は存在しないかのような文章になっている。
いま「脱原発」を訴えている人々のほとんどは、同時に再生可能エネルギーの活用を訴えている人々ではないのか。
また、「核」という単語を「人類と共存できない」場合にだけ使い、「管理」の可能性を述べる後半では「原子力」という単語を意図的に使っているのも、誰かに対する不要な配慮を感じる。
まぁ、重箱の隅をつつくような指摘はやめるとしても、広島市は原爆投下後、長期にわたって、白血病などの放射線障害で多くの人命を失った場所だ。
その場所で毎年おこなわれ、原子力と人類の関係について、世界に対するメッセージを発する象徴的な式典の平和宣言で、原子力発電について、まるで他人事であるかのように、客観的に両論を併記するなど、許されるだろうか。
明確に「脱原発」を言うところまで行かなくてもいい。せめて、今回の福島第一原発の事故が、原子力の管理の可能性に根本的な疑問を投げかけた点までは、踏み込むべきだったのではないか。
例えばこんなふうに。
「このたびの事故は、果たして人類は原子力の与える影響を完全に予測できるのか、人類は原子力を完全に管理できるのかという、根本的な疑問を投げかけました」
そうでなければ、原子爆弾によって放射線障害に苦しみながら亡くなっていた方々の思いがムダになりはしないか。今回の福島第一原発の事故を経てもなお、日本人はまだ原子力に対する考え方を、根本的に見なおそうという意思がないのか、というふうに。
まったく失望させられる、妙に客観的な平和宣言だった。
*2011/08/09 追記
長崎平和宣言では、田上市長は次のように、はっきりと脱原発をうったえた。広島の平和宣言とは対照的だ。
「たとえ長期間を要するとしても、より安全なエネルギーを基盤にする社会への転換を図るために、原子力にかわる再生可能エネルギーの開発を進めることが必要です」
さらに、原子力発電の「安全神話」と、「核兵器の抑止力」を関連づけて、どちらにも疑問を投げかけている。これでこそ被爆国の日本が世界に発信するメッセージとして適切なものだ。
広島は今年の平和宣言で、その歴史的使命を自らの手で否定してしまった。