えっと、今ごろ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を観た理由

えっと、今晩TSUTAYAで借りたDVDで初めて『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を観た。

上映2年たった今ごろ観ているのは、上映当時、ちょうど体調が悪くなり始めたころだったからだ。今になってやっと観る気になったのは、それだけ回復してきたということかもしれない。
一年前は、一人でカラオケに行って、アニメ映像付きで『魂のルフラン』を歌うだけでも、あやうく予期不安からパニック発作に移りそうになったくらいなので。
はぁ、しかし再構築版のヱヴァがこういう物語だったのなら、もう少し早く観てもよかったかもしれない。まさかここまでポジティヴな結末になっていたとは。
これで電気グルーヴでもBGMになっていようなものなら、「エウレカセブンか!」とツッコミを入れたくなるほどだ。しかも、もろに綾波、シンジ、アスカの三角関係。逆に期待を裏切られた感じがしないでもない。

林原めぐみが、わざと下手くそに歌っている『今日の日はさようなら』や『翼をください』といい。
このブログ「愛と苦悩の日記」を始めるきっかけになった、もともとの親サイト「think or die」の、そのまた元のサイト「水のテマティック」で注目した、例の、エレベーター内で綾波レイとアスカが無言のままの固定カメラのカット。
『破』ではずっと短くなっているし、アスカがエレベーターを降りるときの対話は、驚くべきことに綾波レイのシンジへの恋心の告白になっているという始末。
エヴァって、もっと観客の感情移入を突き放すような演出が基調だった気がするのだが、庵野秀明も年をとったということだろうか。
宮台真司が公開当時、この『新劇場版:破』に何かコメントしていたかどうか知らないが、『魔法少女まどか☆マギカ』の結末にコミュニタリアニズムの「近接性」の考え方を援用して論じるなら、この『破』のラストこそまさに「近接性」以外の何ものでもない。
綾波が碇シンジの母親のダミーだとすれば、時間をさかのぼって母親を助けていることになるわけで、鹿目まどかが時間をさかのぼって(?)暁美ほむらを助けているのと同型だ。
再構築されたエヴァが、すでに「セカイ系」の物語の基礎に「近接性」を挿入していたのなら、『魔法少女まどか☆マギカ』は大震災後の世界の「近接性」の重要性を告げるアニメでも何でもないことになる。
それを証拠に、『破』に登場する第8の使徒を、零号機、初号機、2号機が協力して殲滅した後、第三東京市が使徒の死骸(?)の赤い津波に呑まれていく様子が、ほぼ人間の視点の高さで非常にリアルに描写されているじゃないか。
もっと言えば、最後の第10の使徒が初号機を捕食するシーン、頭からガブリといくシーケンス、『魔法少女まどか☆マギカ』で、巴マミがお菓子の魔女シャルロッテに喰われるシーケンスと似ていないか。

たぶん、これらは単なる偶然の一致で、スタジオ・ジブリを除く日本のアニメーションの世界は、意外に狭いもんですよ、というだけのことかもしれない。
宮台真司のコミュニタリアニズムへの「転向」にしても、そもそもは彼の実存を反映しているだけと、僕は考えている。結婚して子供を持てば、誰だって「近接性」がシステムの動因だと考えたくなるものだ。
1960年生まれの庵野秀明も年をとって2002年に安野モヨコと結婚してと、そんなふうに実存とそこから生み出される作品の、密接な並行関係を考えると、結局、人間ってそんなもんですか、とひとりごとを言いたくなる。
ちなみに宮台真司は1959年生まれらしい。庵野秀明と全く同じ世代ではないか。
そういう風に考えてみると、20歳を過ぎて『新世紀エヴァンゲリオン』に出会って、自分自身の中のサラリーマン社会に適応できない部分を正当化する作業を、「水のテマティック」から始まって、「think or die」、つづいて「愛と苦悩の日記」からTwitterへ、その間ごていねいにも、パニック障害やうつ病まで発症して、「厨二病」的に続けている一人の観客は、完全にバカを見ているというわけだ。
どうやらサードインパクトは、カヲル君とロンギヌスの槍の登場で免れたようだが、『新劇場版:急』が公開されるころには、薬に依存せずにサラリーマン社会に適応できていることを望みたい。
ヱヴァンゲリヲンのレビューなのか何なのか、よくわからない文章になった。