内田樹氏のブログ「暴言と知性について」を批判する

松本復興相の辞任について、Twitter上で内田樹氏のブログを引用しているツイートがあった。その内田樹氏のブログの原文は、以下のリンクから読める。
「暴言と知性について」(ブログ「内田樹の研究室」2011/07/05)
このブログの最後の部分だけを引用しておくが、読者の皆さんは必ず全文をお読みになった上で、以下の僕の反論をお読みいただきたい。
「松本大臣の『暴言』は単なる非礼によって咎められるのではなく(十分咎めてよいレベルだが)、この危機滴状況において、彼の威圧的態度が『バカを増やす』方向にしか働かないであろうこと(それは日本の危機を加速するだけである)を予見していない政治的無能ゆえに咎められるべきだと私は思う」
内田氏の論旨は、松本前復興相の威圧的な発言は、相手を恫喝することで、相手の知的能力を低下させる方向にしか働かず、いまの日本の危機的状況においてはデメリットの方が大きい、ということだ。
この内田氏の議論がおかしいのは、松本前復興相の「暴言」と呼ばれているものを、「暴言」だと報道したマスメディアの存在を、まったく問題にしていない点である。
内田樹氏を含め、僕らのほとんどが、松本前復興相と知事たちのあの日のやりとりについて、マスメディアを通した情報しか手に入れていないはずだ。あの場にじっさいに立ち会ったのは、立ち入りを許された記者たちだけだろう。
だとすれば、マスメディア経由でうけとった情報について、それを伝えたメディアに偏りがなかったかどうかを、まず検証する必要がある。その後でなければ、松本前復興相の人柄や言動について、あれこれ言えないはずだ。
たとえば、あの「暴言」が会議室の中で話されるまで、松本前復興相と知事たちの間には、他にもやりとりがあったはずだ。
そのいくつかは記者たちの記録からも漏れたかもしれないし、記録はされたが報道されなかった部分もあるはず。
メディアは、放送時間や紙面に限りがあり、すべてを伝えることはできない。それぞれのメディアが伝えるべきだと判断した部分だけを編集して伝える。これは仕方ないことだ。
ただし重要なのは、メディアが情報を編集するとき、まったく主観が入らない中立的で客観的な編集などというものが存在するかということ。
もちろん、まったく主観が入らない編集などというものは存在しない。
メディアの中立性に限界があることをわかった上で、メディアが僕らに伝える情報をどう解釈するか。それがいわゆるメディア・リテラシーの基本中の基本だ。
日本の学校教育では、メディア・リテラシーの「メ」の字も教育されないので、メディアというフィルタを通して受けとった情報を、まるで自分が直接見てきた事実であるかのように、そのまま信じる人たちが、残念ながら多い。
もう少し具体的に書こう。
あの松本前復興相の発言が、最初に報じられたとき、すべてのメディアが「暴言」や「失言」というマイナスの評価をしていたわけではない。
細かい経緯になるが、松本前復興相は会議室の中にいる記者たちに、この発言は「オフレコだぞ」というバカげた指示をしたらしい。
メディアには報道の自由があるのだから、事前の約束でもない限り、松本前復興相がメディアの流す情報を一方的にコントロールする権利はない。この発言だけを取り上げれば、まったくひどい政治家だ。
しかし「オフレコだぞ」という言葉に反して、勇敢にも会議室内での一連の発言を報道したのは、なんと意外にも東北放送の一社だけだった。
その東北放送のニュースを見た視聴者が、録画したものをYouTubeにアップロードすることで、ネット上で一気に松本前復興相の会議室での発言が広まった。
それも、ほぼ東北放送が報道したかった意図、つまり、被災者の心情を逆なでするひどい発言だ、知事を見下すような発言だ、という意図のとおりに広がっていった。
その後、他のマスメディアが、松本前復興相の発言を「失言」だ「暴言」だと非難し始めたのは、みなさんご承知のとおりだ。
さて、最初に会議室内の例の発言「だけ」を切り取ってニュースにした東北放送というメディアは、松本前復興相と知事たちとの間で交わされたコミュニケーションを、完全に客観的かつ公平に伝えたと、誰が断言できるだろうか。
というより、完全に客観的かつ公平に伝える必要があるだろうか。
被災地である東北にある放送局が、すでにさまざまな角度から非難されている菅政権の一大臣の威圧的な言葉づかいを、非難する意図で報道するのはきわめて自然だ。
東北放送には松本前復興相の発言を、そのような意図で編集、加工してから報道する自由がある。僕はその報道の自由を否定するつもりは全くない。
ただし、その報道をうけとる僕らは、あらゆる報道の背後には一定の意図や作為があり、その意図や作為にそって編集されていることを、ちゃんと知っておかなければならない。
それを知った上でどう判断するかは個人の自由だけれども、内田樹氏のブログのように、松本前復興相の発言が、客観的な事実として「暴言」であることを暗黙の前提であるかのように議論を始めるのは、議論として雑だ。
そもそもメディアというものは、内田樹氏が良しとしている「発言のマナー」を、とてもよくわきまえている。
そして、視聴者たちの「知性のパフォーマンスを高める」(上記ブログから引用)ように、「相手のペースに合わせて、相手が話にちゃんとついてきているかどうかを慎重に点検しながら」(同引用)、短いニュースへ編集することにかけては、いわばプロである。
内田樹氏はそういったメディアの功罪の両面を、上記のブログの中で十分に考慮しているとは思えない。
この日本の危機的状況において、相手のペースに合わせることで、相手の知性のパフォーマンスを高めることを、無条件に良しとしていいのか。それこそ国民の思考停止という、別の危機的な状況をまねくのではないか。
むしろ相手に反感を抱かせることで、批判的な目を開かせることも必要なのではないか。
現にメディアの総攻撃によって、国民は松本氏を辞任に追い込むことに成功した。しかも、民主党への政権交代が起こる前、自民党政権の時代から、ここ10年ほど似たようなことがくりかえし起こっている。
国民の意志を政府に反映させるには、「選挙」という法的な手続がある。それをふむことなく、ほとんどメディアの力だけによって世論が動き、というより動いたように見え、自民党時代をふくめて首相がつぎつぎに交代してきた。
これは他でもなく、メディアが「発言のマナー」をわきまえているからだ。
メディアは、国民をバカにするような、上から目線の物の言い方を慎重に避ける。
メディアは、わかりやすく話せる司会者を起用し、わかりやすい言葉で、わかりやすいビデオで、視聴者の身にしみる実例を挙げて、国民に「なるほど・・・そう言われれば、そうですね」と思わせることに努力してきた。
だからこそ、選挙という、本来ふむべき法的な手続きもないまま、内閣がつぎつぎに交代するということが起こり続けてきたのだ。
このようなメディアの最大の罪は、国民に「あなたたちはバカではありません。十分に知的ですよ。だから、私たちが伝えている以上のことを勉強する必要はありませんよ」と、暗に伝えつづけることで、国民を本当のバカにしつつあることだ。
そしてメディアは、決して客観的でも中立でもない。たとえば、テレビ局の大手スポンサーには電力会社がいて、その広告収入で、日本の原発は安全ですと、これまで大半の国民に信じさせることに、現に成功してきた。僕自身も含めて。
この事実をふり変えれば、メディアが「発言のマナー」の達人であることがわかるし、「発言のマナー」をわきまえることが、必ずしも相手(=国民)の知的レベルを上げることにつながらないこともわかる。
それでも内田樹氏は、「できるだけ『バカが多い』方が自分の相対的優位が確保できる」(同引用)と思っている「エスタブリッシュメントの諸君」(同引用)を否定するのだろうか。
バカにするような「暴言」を吐かれると、萎縮して思考停止になってしまい、逆に持ち上げられると、自信をもって勉強にはげむ。
現実にそうなるかどうかは、純粋に一人ひとりの性格や資質によるのであって、すべての日本人が普遍的に「暴言」に対して萎縮して思考停止するわけではないだろう。
内田樹氏が、学生との1対1の関係における経験を、日本人全員に普遍化している点には明らかに無理がある。
むしろ「暴言」を吐かれても、「甘言」にまどわされそうになっても、その「暴言」や「甘言」の背後にどういう意図があるのか、冷静に考えられる能力こそ、危機的な状況にある日本にとって必要なのではないか。
特に、その「暴言」や「甘言」がメディアによって伝えられるとき、表向きの乱暴さや、表向きのわかりやすさの背後にある意図を、あらためて考えてみる能力、つまり、メディアリテラシーが必要になるのではないのか。
その意味では、「暴言」を一方的に危険視する内田樹氏の論は、この危機的な状況にある日本にとって、かえって危険な考え方だと言える。