涼宮ハルヒは無知によって凡庸な世界の創造主たりえている

中国でも人気のラノベ(軽小説、ライトノベル)小説家が登場するくらいなので、ラノベについて全く何の認識もないのは問題だと、ふと思った。
それでアマゾンで谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』『涼宮ハルヒの溜息』の古書をそれぞれ1円+送料で購入して、さっそく読んでみた。
なぜ涼宮ハルヒ・シリーズを選んだのかといえば、何となくいちばんよく名前を聞くからで、それ以上の理由は特になかった。
シリーズ第一巻の『涼宮ハルヒの憂鬱』を読み終えてみて、率直な印象は、思ったほど幼稚っぽくなかったが、やはり大したものではないな、といったところだ。
まずテーマは、退屈な日常の主題化。大前提として社会に対する不満がなく、何の不自由もないがゆえに退屈という、恵まれた日常生活が存在すること。
現実の日常生活で、たとえば日々の仕事に適用できずに苦しんでいたり(僕みたいに)、そもそも安定した雇用からあぶれていたりする読者にとっては、まずこの大前提がすでに十分フィクションとして成立する。
このフィクションが成立するのは、登場人物たちが親がかりの高校生だからだ。そして彼らの生活を経済的に支えている親は、この小説にいっさい登場しない。担任の教師もエピソードの付け足しとして描かれるだけで、ほぼ登場しないと言っていい。キョンの妹も、やはり挿話におまけとして登場するだけ。
登場人物たちをめぐっては、社会的にタテ方向の人間関係(両親や教師との関係)はまったくこの小説に描かれない。はっきりした先輩・後輩の関係さえ描かれない。
朝比奈みくるは、キョンや涼宮ハルヒの1年先輩のはずだが、そこに先輩・後輩の上下関係はまったくない。むしろ朝比奈は涼宮の愛玩動物のように描かれる。
この水平な人間関係しか存在しない日常生活というもの自体が、おそらくほとんどの読者が思っているよりも虚構性が強い。水平な人間関係だけで生きていけるような空間は、現実にはどこにもない。
その上で、そういったタダでさえ虚構性に満ちた「退屈な日常」を打ち破るものとして、突然、SF的な異空間が割りこんでくる。
ふつうに読めば、SF的な異空間のような、大げさな物語装置を持ち込まなければいけないほど、この物語の登場人物たちの高校生活は退屈なのだ、となる。
しかし実際には、きわめて凡庸なものとして描かれている高校生活そのものが、上述のようにきわめて特殊で虚構性が強く、現実の社会のどこにもないものだ。
きわめて特殊な涼宮ハルヒたちの退屈な日常を、きわめて凡庸な退屈な日常として描くために、「閉鎖空間」や超能力者、未来人などなどの大げさな物語装置が必要とされているのである。
もう一度言うと、凡庸な日常に突然割りこんでくる非日常、というのがこの小説の主題ではなく、突然割り込んでくる非日常という大げさな道具立てがなければ、もはや凡庸な日常というものがフィクション(小説、おはなし)として成り立たなくなっているんですよ、というのが、この小説の主題である。
なので、超能力者どうしの戦いや、巨人との戦い、涼宮ハルヒにキスをすることで「閉鎖空間」が解除されるなどなどの、大げさな道具立ては、この小説の本筋ではない。
そんな大げさな道具立てを、つぎつぎに導入しなければフィクションとして維持できないような、登場人物たちの平々凡々たる高校生活の方が本筋だ。
だから、そういう平々凡々たる高校生活というフィクションが、いったいどこから産まれて来たのか、という問いが、この小説の中でもっとも重要な問いであるのは偶然ではない。
その答えは、涼宮ハルヒらしい、ということは、小説の始めからすでに書かれているが、涼宮ハルヒ本人はそのことにまったく無自覚という設定になっている。
これも考えてみれば当たり前で、当の作者である谷川流氏や、この小説の読者たちは、この小説に描かれている凡庸な高校生活が、自分の現実生活にない虚構だと分かっている。
なので、その虚構の根拠づけを、いちおうしておかないと、さらにその二階部分に積み重ねる、「閉鎖空間」だの超能力者だのといった、SF的なスペクタクルがまったく描けなくなる。
虚構の根拠づけの、もっとも身も蓋もないやり方は、それは物語の作者が勝手に作ったおはなしです、というものだが、どうやらそれではライトノベルにならないらしい。
芥川賞や直木賞の選考対象になるような小説なら、作者が文字どおり小説の作者として、創造主の権威をもって君臨することは、どうやら許されているようである。
もちろん小説の中には、作者が自ら作者であることを否定し、他の小説やその小説自身との関係性だけで、小説として成り立つような構造をもつ、屈折した小説もある。
そうでない小説の場合、作者が小説の作者、創造主として君臨することは、ふつうは小説の中で作者が小説の書き手について、小説の中で書かれた虚構の出所について、「まったくふれない」ということで実現される。
その物語が、いったいどこから産まれて来たのかについて、あえてまったくふれないことによって、その物語が作者によって創造されたことが明示される。
虚構は、それを産み出した作者の不在によって、はじめて虚構として成り立つ。そんなしくみになっているらしい。
ところが、ラノベの場合は、作者の不在によって虚構として成り立ってはいけないらしい。虚構の存在の源が、作者の不在によって逆にあからさまに示される、ということは、ラノベには似合わないらしいのだ。
そういう理由で、涼宮ハルヒ・シリーズでも、この小説そのものの虚構性の根拠は、涼宮ハルヒという設定にされている。
それによって「作者の不在」を、小説に書き込まないことで書き込む、「作者の不在」によって作者の存在をはっきりと示す、といったことを、やらなくて済んでいる。
この小説の平々凡々たる高校生活は、いったい誰が創造したんだ?という問いには、登場人物の一人である涼宮ハルヒです、という答えが、小説の中に最初から用意されている。
涼宮ハルヒ自身がそれを自覚していない設定になっているのは、仮に涼宮ハルヒがそれを自覚していれば、「誰がそれを最初に知ったのか」という問題が残ってしまうからだ。
小説の中で他の登場人物たちは、涼宮ハルヒが平凡な日常生活の創造主であることを「知っている」。その事実を知らないのは涼宮ハルヒだけである。
これは、この小説を一種のサスペンス(いつ涼宮ハルヒは自分が創造主であることを気づくんだろう、ドキドキみたいな感じ)として読ませるための工夫でもある。
しかしもっと重要なのは、涼宮ハルヒ「だけ」がそれを知らず、作者である谷川流も、読者も、他の登場人物たちも、全員それを知っているという設定にすることで、逆に涼宮ハルヒを創造主として特権化できるからである。

仮に涼宮ハルヒが、自分が創造主であることを知ってしまったら、彼女もまた凡庸な一人の高校生に過ぎない存在になる。超能力者でもなく、未来人でもない、ただの高校生。
涼宮ハルヒが唯一、自分が住んでいる世界の創造主について無知であることが、彼女を創造主たらしめている。そう設定することで、平凡な日常生活は初めて虚構として成立することができる。それによって、初めて「閉鎖空間」だのといった大げさな物語装置を起動させることができる。
『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説を、僕なりにごくかんたんに説明すると、そういうことになる。
で、涼宮ハルヒ・シリーズはそれ以上でも以下でもない。
もしかすると続きを読めば、どこかで涼宮ハルヒが自分が創造主であることに気づくのかもしれないが、そのときはもうこの小説は事実上終わっているだろう。
あとはアニメ化するなり、フィギュアを作るなり、同人誌で二次創作をするなり、コスプレするなりして消費される物語と化す。
作者は僕と同年代だけれど、僕もこういうラノベで一発当てて、平凡な日常生活の地獄から逃避したいものだ。
でも、今の平凡な日常生活を、日々選択し続けているのが自分自身だという諦めからは、何も産まれないんだよね。悲しいことに。