トリウム原発が普及するかどうかは科学的合理性と無関係

古川和男『原発安全革命』(文春新書)を読んだ。

本書は同じ著者による2001/08出版の『「原発」革命』(文春新書)の増補新刊で、トリウム原子力発電技術の優位性についての、かなり専門的な技術的解説をふくむ本だ。
はっきり言って、文系の僕には本書中盤~後半にかけての、トリウム原発についての技術的解説部分は全く理解できなかった。
水を冷却材兼中性子の減速材として使い、固形のウラン燃料を使う従来型の原発よりも、溶融塩を燃料とするトリウム原発の方が、何となく技術的に優位だということだけは、くり返し書かれているので理解できた気がする。
しかし、トリウムはそれ自体で核分裂を起こさず、ウランやプルトニウムを混ぜないと核燃料として使えないので、トリウム原発が放射性物質と無縁になるわけではない。
科学的に見て、固形のウラン燃料を使う従来型原発との比較でいえば、原子炉全体の維持管理がかなり簡潔かつ低コストになるという、あくまで相対的な優位性でしかない。
したがって著者も、トリウム原発をあくまで太陽光などの自然エネルギーを安定した発電に使える技術が開発されるまでの、「つなぎ」と考えている。
トリウム原発自身は、終息させる時期を見据えた上で導入すべきという、きわめて現実的な議論だ。
ところで、トリウム原発の利点として著者が再三にわたり強調していることの一つに、核兵器への転用の難しさがある。
トリウム原発は、現状の原発のように、核兵器に流用できるプルトニウムを副産物として出さないばかりか、そのプルトニウムをトリウムに混ぜて燃やしてしまうことができる。
ただ、これまで50年以上、トリウム原発技術がほぼ無視され、ウランを燃料とする原発が世界中で推進されてきたのは、筆者も指摘しているように、まさに使用済み燃料を核兵器に転用できるからだ。
つまり、世界各国がトリウムよりウランを選択したのは、科学的合理性からではなく、政治的合理性からである。
それに対して著者のような科学者が、いくらトリウム原発の科学的合理性を説いても政治的に無効だ。
また、核抑止力をベースとする現代の国際政治と正反対の政治的合理性、つまり、「核の平和利用」の観点から反論しても、やはり政治的な効力がない。
フランスや米国のように、すでに多くの原発を保有し、その副産物として核兵器を製造するのに十分なプルトニウムを持てる国は、すすんでトリウム原発の技術開発をすることもできるだろう。
しかし、すぐにも大量の電力消費国となる開発途上国は、たとえ福島第一原発の事故の後であっても、従来型原発をみすみす捨てるはずがない。効率的な発電と、核兵器の原料を、同時に手に入れられるからだ。
仮に今から各国がトリウム原発を導入するとしても、従来型原発の廃炉の手間が省けるわけではない。その使用済み燃料を、トリウム原発が十分な数、建設されるまで、核兵器に転用されないよう管理する必要性も残る。
僕のような文系ではなく、基本的な理系の知識があり、トリウム原発の優位性が分かれば分かるほど、虚しい読後感のある書物、といったところか。