鬼束ちひろに直接会えた後の日常生活について

もうこの年齢になると、上を向いても、大したものは見つからない。
上というべきか、前というべきか分からないが、いずれにせよ一般的に「未来」と呼ばれている時間のことだ。
僕がまだ20代なら、鬼束ちひろと初めて直接会えたことで、これからは上を向いてだか、前を向いてだか、歩いて行こうと思えるかもしれないけれど、この年齢になると、そこにはもう何もない。
たとえば30歳の鬼束ちひろは、先日出版された自伝エッセイ『月の破片』(幻冬舎)の「グラミー賞」という章に、こんな内容のことを書いている。

英語で本格的に歌いたい、グラミー賞をとるぞ、「音楽活動についてこうやって具体的な目標を公言することは、今までほとんどなかった気がする」(p.212)
年齢を重ねることで、いちばん恐ろしいというか、残酷なことは、自分の容姿が衰えていくことや、体力がなくなっていくことではない。
この社会のしくみ上、次にふみ出す一歩の選択肢が、自動的にどんどん狭くなり、ある時点まで来ると、事実上一つにしぼられてしまうことだ。
昨夜、YouTubeで、当時実は彼女が大嫌いだったというAラインのドレスを着てステージに立つ鬼束ちひろの映像を見て、「確かに似合わない」と思えるようになった。
極端な外見の変化は人を驚かせただろうけれど、鬼束ちひろほどの才能があって、まだ30歳なら、人を驚かせるほどの一歩を、まだふみ出す余地があり、それだけ「未来」が広がっているということの、何よりの証拠だ。
うらやましい、という言葉しか出てこない。
高校生のとき、当時の担任と進路相談をひとしきり終えた教室で、担任が「可能性があるってのはいいねえ」と、しみじみつぶやいたのを今でも覚えている。
今の僕は四六時中、心のなかでそうつぶやきたいけれど、僕の高校時代の担任は、当時の僕のように可能性に満ちた高校生に教師として向きあえていただけ、僕よりは救われていたのかもしれない。
僕はといえば、鬼束ちひろに直接会えた、よし、今日は一人でカラオケに行って鬼束ちひろを歌いまくるぞという、どういう意義があるのかわからない行動に出るしかないのだから、悲惨といえば悲惨だし、滑稽といえば滑稽だ。
ここ数年とくに、自分でもムダ遣いが多くなったなぁと実感する。理由ははっきりしていて、もう「何を消費するか」でしか自分固有の何かを表現できなくなっているからだ。
昔なら、自分でなければ歩めないような次の一歩を選ぶことで、自分固有の何かを表現できた。つまり、生活や生きていることそのもので、自分にしかない(と思われる)何かを体現できた。
でも、次の一歩が一通りしかなくなれば、もう「何を買うか」でしか自分の趣味や、自分独特の考え方を表現することができなくなってしまう。モノに限らず、サービスも含まれるけれど、何を消費するかが僕の独特なところすべてを規定するようになってしまう。
仮に一銭もお金を使わなければ、僕が誰でもできるサラリーマンの仕事を、たまたまいま誰かの代わりにやることで、生活の大半の時間を食いつぶし、残りの時間はすべて、月曜日からまた仕事を始められるようにするための休息に費やされる。
まだ何を消費するかで自分を表現できるうちはいい。消費に回す十分なお金さえなくなれば、もう誰にでもできる仕事をやって、食べて、寝るだけの生活になる。
食べることも、寝ることも、病気でない限り誰にでもできることで、僕でなければできないことではない。
こんな「自分らしさ」や「個性」みたいなイデオロギーを、子供のころにここまで決定的に吹き込んでおいて、今ごろになって人を絶望させる教育に、「少なくとも今まで夢を見させてくれてありがとう」と感謝すべきなのか、「今ごろになって絶望させないでほしいよ」と悪態をつくべきなのか、よく分からないけれども。