鬼束ちひろにキスマークをつけられた件

鬼束ちひろの個展『BUNNY AND THE PYTHON』が、2011/05/09~2011/06/04の期間、渋谷SUNDALAND CAFEにて開催されている。
SUNDALAND CAFEのウェブサイトより(2011/05/09)
ということで今日、会場のSUNDALAND CAFEに行ってきた。
渋谷の宮益坂、明治通り側はほとんど行ったことがないので、スマートフォンのグーグルマップをたよりにコンパルビルを見つけ、明治通りを見下ろせる窓つきエレベーターで5階に降りた。
はっきり言って、雑居ビルにあるこういうこじんまりしたお店は苦手。しかも思ったよりずっと小さなカフェだったので、入った瞬間、さっさと展示物を見て帰ろうと決意した。
店内を見わたすと入口にいちばん近いテーブルに、女性が5、6人すわって談笑している。
鬼束ちひろファンどうしでうちとけて、鬼束話に花を咲かせてるんだ、と思いつつ、視線をあわせないように、壁ぎわに並べられた鬼束ちひろの「手悪さ」の成果を見ようとした。
すると視線の片隅に、全身ラメラメでメイクもケバい女性が1人。どうしても無視できずふり返ると、はたして鬼束ちひろ本人だった。
数秒間、言葉を失って彼女の笑顔を見つめた後、驚きで「どうも」としか言えなかった。
すすめられるままに、鬼束ちひろのすぐ左どなりの席にすわらせてもらうと、カフェで販売していた、有賀幹夫氏撮影による鬼束ちひろの写真プリントTシャツに、ファンが一人ずつサインをしてもらっている。
というか、鬼束ちひろって、こんなによくしゃべる人だっけ。
しかも、初対面のファンたちと、まるでずっと前から親友だったかのようにおしゃべりしまくっている。
おかげで僕は、鬼束ちひろの正面に座っている女性が、右手首に鮮やかな色のタトゥーをくるっと入れて、彼女がサインをするときTシャツをおさえていたのだが、それが鬼束ちひろのマネージャーの小夏さん(?)だと気づくのに、しばらくかかった。
やや冷静になった僕は、ここはミーハーに行動しないと、生涯の損失を今の低い金利で割引いても、Tシャツの価格の4,800円の少なくとも38倍になると思ったので、入口のカウンターでMサイズを購入した。
次にサインをお願いしようと、鬼束ちひろのすぐとなりの席にもどったら、彼女がお手洗いに立ったりしたので、「やっぱり誰にでもサインするなんて虫のいい話はないよな」とソワソワしていた。
そしたら、しばらくして鬼束ちひろがテーブルにもどってきて、僕に向かって言った。
「着てあげようか」
僕は「えっ」と驚くことしかできなかったけれど、彼女は僕が持っていたTシャツをラメのトップスの上から着てくれた。そして、なぜか小林明子の『恋に落ちて』をひとふし歌った。
他のファンのみなさんはきょとんとした顔をしていたが、いま思うと鬼束ちひろは僕の外見から、僕の年齢なら分かるだろうと思って口ずさんでくれたのかもしれない。
僕の左手の薬指の結婚指輪にも、気づいていたのかもしれない。不倫ドラマの主題歌だからね。
Tシャツを脱いで、彼女はそのまま席にすわるかと思ったら、脱いだTシャツを僕の胸に合わせ、Tシャツの上から僕の右肩に思いきり唇を押しつけた。キスマークを付けるためだ。
彼女のふるまいは、いちいち絵になる。あの場所でただカメラを回すだけでも、ドキュメンタリー映画ができただろうな。
席にすわると、鬼束ちひろは「BUNNY AND THE PYTHON」とプリントされた面をテーブルに広げ、向かいの席のマネージャーさんがTシャツをおさえた。彼女が僕にたずねる。
「名前はなんていうの?」
「いろいろあるんですが…」
「そりゃやっぱり本名がいいよ」
「じゃあ、コウイチで」
「どういう字?」
「えっと…」
「わかった。あたしが考える」
ということで、鬼束ちひろは僕に「KOー市」というあだ名をつけた。そしてその横に「どうもありがとう」とまで書いたところで僕が
「けっこうまともなこと書きますね」
とつぶやいたら、「とか思わんよ。」と付け足した。「どうもありがとうとか思わんよ。鬼束ちひろ」。なんの屈託もない、素敵なアイロニーだ。
それからじ写真がプリントされた面にうら返して、自分の写真の口のところに、ぺろっと出した舌を書き加えた。
「ライブに来たら、こうやって引っ張って見せてよ」
「ありがとうございます」
Sundalandcafe2011051402s
恐縮する僕に、鬼束ちひろが続けて言った。
「写真はいいの?」
「いいんですか」
僕はカバンをさぐりながら、
「たまたまデジカメを持ってたんですよね」
と言うと、
「たまたまとか言って、んなわけないじゃん」
とお約束のツッコミ。彼女はファンのみんなといっしょに笑っている。
やっぱり僕は、昔から鬼束ちひろの友だちだったのかもしれない。なんたって、「KOー市」というあだ名、発音しただけでは分からず、文字にしない限り分からないという、すごいあだ名まで付けられているのだ。
僕にあだ名を付けた人間は、ここ15年くらい一人もいなかったのに、鬼束ちひろは初対面の僕に、ほんの一瞬であだ名を、しかも「エクリチュール」にしなければ分からないという、すごく哲学的なあだ名を付けてしまった。
ひどく人間ぎらいの僕に、ずけずけと話しかけ、「どうもありがとうとか思わんよ。」というアイロニーまで投げつけ、遠慮のないあだ名までつけているのに、ずっと前から友だちだったんじゃないかと思わせてしまう。そういう人に、僕は今まで会ったことがない。
そんな鬼束ちひろが気狂いだとしたら、たぶん狂っているのは世界の方だ。
なんてね。
ツーショット写真のシャッターは、マネージャーさんが押してくれた。鬼束ちひろは僕の右腕にしがみついてくれた。まるで彼女が僕のファンみたいにして。
(ちなみに、マネージャーさんに撮ってもらったツーショットの写真をアップしようと思っていたけれど、今はそんな気分になれない)
それから、若い男の子のファンが店に入ってきた。絵の勉強をしている彼も、鬼束ちひろが一度身につけたTシャツに、「SHU-Hey!」という「あだ名」をサインしてもらった。
「温めてあげる」
と、サインしたTシャツを鬼束ちひろは、おどけて抱きしめてから彼に手渡した。その彼は驚いたことに、もしかすると鬼束ちひろがいるかもしれないと、途中でチョコレートをプレゼントにもってきていた。
「僕、絵の勉強をしてるんですけど」
彼が小さなスケッチブックと白の鉛筆をバッグから取り出すと、鬼束ちひろはその見開きに、こんどは彼の名前の正しい漢字を確認して書いてあげてから、Tシャツとは別のメッセージを書き入れた。
独特の語感をもつそのメッセージの内容は残念ながら思い出せないけど、やっぱり優しいアイロニーだった。
そこへもう一人、わざわざ群馬から来たらしい若い女性のファンが入ってきた。同じようにカフェの入口でしばらく呆然として鬼束ちひろの笑顔を見つめてから、すすめられてマネージャーさんの隣の席にすわった。
若い男の子が買ってきていたプレゼントのチョコレートは、かなり開けづらい箱だったけれど、鬼束ちひろはファンと談笑しながら、真っ赤な長いネイルで、長い時間をかけて、大切そうにふたを開けた。
中身は4つのチョコレートだった。
「ジャンケンして勝った人が食べられる!」
「いいんですか?」
「最初はグー、ジャンケンポン!」
というわけで、僕は食べられなかったけれど、見事勝利した鬼束ちひろと、プレゼントした本人の彼と、他の女性ファン2人がそのチョコレートを口に入れた。
「固くない、これ」
彼女らしい、ひとこと。今日、東京は暑くて、保冷剤でチョコレートがよく冷えていたらしい。
それから鬼束ちひろは、何がきっかけでファンになったのかとファンのみんなに質問して、『月光』とくると「やっぱりそうだよね」とか、それが中学生の頃だと知ると、中学生のころはどんな音楽を聴いてたかだとか、ふつうにおしゃべりをしていた。ふつうのおしゃべりが、まるで奇蹟みたいなふうに。
やっぱり僕は昔から鬼束ちひろの友だちだったに違いないと思って、たまたま店内のBGMがワム!たっだので、
「これってワム!ですよね」
と話しかけたら
「うん。さっき言って、かけてもらったの」
とふつうに答えた。すると鬼束ちひろは突然思いついたらしく、
「超イントロクイズ!」
と言うと、席にすわったままで口ずさみ始めた。
「すーべーてに おーいーて げーんかく てーきーで…」
「はい!『嵐ヶ丘』」
「ピンポン、ピンポン。じゃあね…なんーとかー うまくこーたえーなくちゃー」
「はい!『インファクション』」
「は?インファ…?」
「はい!『感染』」
「日本語に訳しちゃってるよ」
鬼束ちひろが生で口ずさむ『嵐ヶ丘』や『infection』を、当たり前のように聴けてしまうのは、きっとあの場にいたのが彼女の「親友」ばかりだったからだ。
彼女の右どなりにすわっていた親友は、大阪から上京してきたらしく、鬼束ちひろはその子がバカなことを言うたびに、頭を思い切りはたいてツッコミを入れていた。
そんなムダ話をしているうちに、次の仕事の時間になったようで、鬼束ちひろはマネージャーと席を立った。
「じゃあ、今日はどうもありがとう」
そう言うと、親友を一人ずつハグして(僕は既婚者なのでさすがに遠慮したけど)、個展会場のカフェを出て行った。
彼女が去ったあと、僕を含めた6人は、今のが現実だったんだろうか、みたいな感じで、大阪から出てきてた子は「何回、頭はたかれたんやろ」とよろこび、そうそう、肝心の展示物を見ていなかった、ということで思い思いに鬼束ちひろの「手悪さ」の成果を見はじめた。
グラムロック時代のデヴィッド・ボウイの写真や、ジャクソン5の『ヴィクトリー』のLPジャケットに金色のマジックで英語の詩を書いたもの。
鉛筆の驚くほど精緻な抽象画。
筆ペン(?)で書いた、未発表の歌詞。
蛍光色の三匹のクマのぬいぐるみが、黒のビニールテープで目隠しされていて、お腹の部分に一文字ずつ「F」「B」「I」とやはり黒のビニールテープで書かれたオブジェ。
などなど。
展示されていた未発表の歌詞はどれも、彼女の書くメロディーが付いて、彼女自身が歌ったら、どんなに素晴らしい作品になるだろうと思わせるものばかりだった。次のアルバムをいつでも出せそうな感じだ。
ただ、一人だけいい年をしたオッサンの僕はさすがに居づらくなり、鬼束ちひろの親友のみんなにあいさつをして帰ろうとした。
そしたら何と鬼束ちひろがマネージャーと店にもどってきた。仕事の時間が変更になったらしい。といっても、気恥ずかしがったりすることなく、また自分の部屋に戻ってきたよ、という感じで。
正直、もう少しその場にいたかったけれど、あまりミーハーすぎるのも見苦しい気がして、やっぱり帰ることにした。
鬼束ちひろは、さっきのテーブルと入口のドアをはさんで反対側にあるソファーに座っていた。帰ろうとする僕が何かを言おうとするよりも先に、
「今日は本当にありがとうね」
と笑顔で立ち上がって両手を差し出した。僕は彼女と両手でしっかり握手しながら
「ありがとうございます。ライブあったら、絶対行きますんで」
と言って、個展の会場を立ち去った。
これが、今日あった出来事。
今日、すぐそばで話した鬼束ちひろの外見は、たしかに先日のラフォーレ原宿での試聴会や、『やじうまテレビ!』のインタビューで見たとおり、真っ赤に口紅を塗り、パープルのアイシャドウが濃くて、カラーコンタクトを入れ、ラメのトップスで、10年前の彼女とあまりに違っていて、何があったのかと言いたくなるかもしれない。
ただ、僕にとっては、生まれてから今までこれほど心をつかまれる歌手はいなかったし、奇妙なことだけれど、これほど身近で、同時にこれほど手のとどかない「スター」はいなかった気がする。
直接会って、すこし話しただけなのに、どうしてたくさんいるうちの一人のファンでしかない人間を、うざったいと思わせない絶妙な、ほんとうに絶妙な距離感で、これほど大切にしてくれたんだろうか。
僕のほうが彼女の書く曲を愛したつもりが、気づいたらむしろ彼女のほうがそれ以上に、ファンである僕を昔からの親友のように大事にしてくれていた。そんな時間だった。