ビデオニュース・ドットコム『原子力の専門家が原発に反対する理由』文字おこし(1)

「ビデオニュース・ドットコム」のマル激トークオン・ディマンド 第524回のうち小出助教出演部分を、要約しつつ文字おこししてみた。

小出 裕章(こいで ひろあき、京都大学原子炉実験所助教):1949年東京都生まれ。72年東北大学工学部原子核工学科卒業。74年同大学大学院工学研究科原子核工学専攻前期課程修了。同年より現職。
『原子力の専門家が原発に反対する理由』(2011/04/30放送)
収録日付:2011/04/27(水)
収録場所:京都大学原子炉実験所(大阪府熊取)
インタビュアー:神保哲生、宮台真司
(以下、敬称略)
神保:なぜ小出先生は原子力の学問を志したのか?
小出:私は東京の下町・上野で産まれ、1960年代に育った。当時、東京では広島・長崎原爆展がしきりに開かれており、それを見に行って原爆のひどさを心にすりこむ一方、それだけのすさまじいエネルギーを産み出すものが存在することも理解した。
ちょうど1966年、東海一号炉という日本初の原子力発電所が動き出した。日本中、諸手を上げてこれら原子力の時代だと言い、1970年代になって敦賀・美浜の原発も動き出した。
私も原爆のような使い方はけしからんが、そのエネルギーを平和的に使えば人類のためになると思いこんだ。どうしても原子力をやりたいと、大学入学時に工学部原子核工学科に入った。
宮台:いま「思いこんだ」とおっしゃったのは謙遜。1963年この原子炉実験所ができ、同時期『鉄腕アトム』(妹はウラン)のアニメが始まり、原子力潜水艦スティングレイや、サンダーバード(3号は原子力ロケット)などの人形劇の放送も始まる。原子力は明るい未来の象徴だった。実は僕も小学校の作文で、将来、原子力を研究する学者になると書いた。
僕が東大に入ったころも、進路振分けでは原子力は電気工学とならんで最も点数が高かった。
神保:原子力が夢のあるエネルギーだというのは、当時の知見では本当にそう思われていたのか、まだ危険性が分かっていなかったのか。
小出:1960年代なかごろは、危険性に対する意識はまだほとんどなかった。皆が夢を持って原子力に突進した。欧米も同じ。1960年代から70年代の始めは、世界中で原子力発電所がどんどん建設される時代。
神保:原子力の危険は素人目に見ても恐いと思うが、当時、その危険が分からなかったというのは、考えていなかったのか、本当に分からなかったのか、メリットが大きいからなのか。
小出:メリットの方が大きいと思いこんでしまい、デメリットに目がいかなかった。
神保:そこからの転機はどのようにおとずれたのか。
小出:1968年に東北大学の原子核工学科に入学した。ひたすら勉強していた。そのころ東北電力が原子力発電所の建設計画を立ち上げ、その計画地が女川町という小さな町だった。東北大学のある仙台から直線距離で60~70km離れている。
仙台には仙台火力発電所という大きな発電所もあったが、原子力発電所は女川町につくろうとした。当時は日本中が諸手を上げて原子力という時代だったが、女川町の住民が、何かがおかしいと気づき、ごく少数の住民が建設前の段階で、反対だと言い出した。
私は原子力に夢を抱いていたので、反対する理由がわからなかったが、女川町の住民の意見はとても単純だった。安全ならなぜ仙台に作らないのかと問われた。
私はその問の答えを見つけるべく調査し、原子力発電所は都会では引きうけられないリスクを持っているという、今となっては当たり前のことを見つけた。
電気を使うのは都会の住民だが、都会の住民はリスクは引きうけたくないと言い、原子力発電所をいわゆる過疎地に押しつける。そういうことをやろうとしている、というのが私の見つけた答え。
その答えを知ってしまった以上、選択は一つしかなく、建設中止だった。そこで人生の選択を180度転換し、原子力をやめさせることに力を注ごうと思うようになった。それは1970年10月23日のこと。大学3年のとき。大学院に進学する前の話。
宮台:なぜ日付を覚えているのか。
小出:女川町で第一回の反対集会が行われ、私も参加したから。
神保:なぜその後も原子力研究を続けたのか。
小出:大学に入学した1968年は大学闘争が始まった年。当時の私は大学闘争が何なのか全くわからなかった。しかし女川の問題に突き当たり、自分の原子力という専攻について考え始めた。アカデミズムの実態を知れば知るほど、価値中立的ではないと思うようになった。
原子核工学科は元来、原子力発電を推進する牙城だが、そこで原子力をやめさせようとした。教員たちと毎日のように論争し、いま自分で言うのはおかしいが、大抵私が論争に勝った。
すると彼らが言ったことは、自分には妻もいる、子もいる。生活があるということ。私と同じように女川町原発の建設に反対した人は、原子核工学科にもかなりたくさんいた。大学闘争の時代だったので。
その中で私のごく親しい2歳年上の友人は、生活を言い訳にしたくないと考え、大学院を辞めて、とび職になった。その上で女川原発の反対運動を続けて、いまでもその中心メンバーにいる。
彼がその選択をしたとき、私はその選択をしないと言った。原子力を推進しているアカデミズムの世界が現に存在するのだから、その世界の内側で原子力に反対する人間も必要だ、その代わり生活を決して言い訳にしないと、彼に言った。そういう経過。
神保:ということは、その後も原子力の研究を続けたのは、原子力に反対するためだと理解していいか。
小出:そのとおり。
神保:原子力を推進するための組織の中で、反対の立場でいることはどういう状態だったのか。
小出:大学闘争の時代だったので、学生は時分の学んでいる学問がどういうものかを、否が応でも考えざるをえなかった。教員も日常的に学生から論争を挑まれ、それを受けとめざるをえなかった。
大抵の人は生活のためということで、原子力推進の旗振りをしていた。私はたぶん教員からは嫌われていたはず。しかし他方、私のような人間を研究室に迎え入れてやろうという教員もいた。捨てる神あれば拾う神ありという状況。
宮台:生活がある、という言い訳について。今日のネット上の原発の議論を見ると、妥当性や合理性の議論はほとんどなく、まずどちらの陣営かの帰属をして、その後、誹謗中傷合戦になるのが大半。
たしかに田中角栄の電源三法以降の、地域振興とセットになった原発政策により、原発を誘致するかどうかが、現地の人たちにとって生活の問題になり、原発の合理性・妥当性の問題より、生活の問題が全面に出てくるようになった。
田中角栄氏は、道路さえ敷けないような土地に原発を作れば地域が栄えると発言していた。
地元の人がこういう政策的な誘導に流されるのは分かる。しかし、なぜアカデミズムの中心にいる人たち、特に原子力物理という、当時もっとも優秀な人たちが行く学科の、最も真理性に真摯に立ち向かうはずの人たちが、なぜ合理性や妥当性ではなく、生活のことを言って恥じなかったのか。
小出:私も分からない。その人たちに問うてください。
神保:小出先生のようなスタンスをとることは、いわゆる「原子力村」の中では非常に困難だったのでは?
小出:原子力は国家の根本をなす政策で、私は原子力は核と同じものだとずっと言っている。国家が「原子力=核」を推進することを根本にすえ、その周辺に電力会社や官僚がむらがった。そのさらに周辺に建設業がむらがった。その周辺に下請けがむらがった。
その全体に対して、生活をどうにかしてやるという政策を、まさにブルドーザーのように推進した。それに対しては誰も抵抗できない時代だった。
学者は聖人君主でも何でもない。個々に生活をかかえ、出世もしたい、名誉も得たい、給与も良くなりたい。原子力をやろうとすれば、それらへの最短距離は国家に協力すること。
宮台:僕も大学時代、本来やりたいのは若者の宗教と性に関する文化の問題だったが、そんなことしていたら生き残れないと忠告され、数理社会学者の「ふり」をして博士号をとった。
その後たまたま大学の講師になれたので、本来やりたかったフィールドワークをするようになった。すると当然ながら学会では周辺に追いやられる。そして、さまざまな人たちが手紙で忠告をしてくれた。君のように、人々の「自明性」や心の平安を揺るがすような研究をするのは許されないんだ、と。
その意味では、原子力でいう「絶対安全」というスローガンも人々の自明性であり、「実は危険だ」という議論は人々の自明性を崩すことになる。なので、そんな研究をしてはいけないという点で、原子力の学問にも似たような正当化のロジックが働いたのではと想像する。
小出:そのとおり。原子力については国が「絶対安全」と言い続けてきた。多くの国民は国や電力会社の言うことを信じてきた。アカデミズムの人たちも「まさか問題は起こらないだろう」という考えてやってきた。
宮台:ネット上では、先ほど言った陣営に分けた誹謗中傷合戦とは別に、「安全厨」と2ちゃんねる用語で言われる人々がいて、原発事故の直後から「これはとんでもないことになる」といったツイートを流すと、「安全厨」から猛烈な攻撃にあう。「不安にさせるのか!」「デマを流すのか!」等。後にはそうした「安全厨」の流す情報の方が、「安全デマ」と言われるようになるが。
僕がかかわっているラジオ番組も含めて、今はどうかだけでなく、将来の最善・中間・最悪のシナリオを言わないことや、ベイズ統計的な行動計画が立てられないことを批判すると、これまたすごいバッシングを受ける。
神保:今回のような事故が起こった後なら、小出先生のような立場もまだ許されるが、今まで国をあげて原発の安全性を喧伝している中で、いわゆる運動家ではない専門家として「危険だ」という少数派でいつづける「試練」を乗り越えてこられたのは、なぜなのか。
小出:何も試練がなかったから。
神保:試練がなかった!?つらいことはなかった。
小出:何もなかった。何かの週刊誌で「迫害され続けてきた小出たち」のような書き方があったが、私は迫害など一度もされたことはない。
神保:失礼ながら、今の年齢でまだ助教でおられるのは、その学問の世界で明らかに反主流だからでは。
小出:大学のポストというものは、大学や、国立大学の場合は国の意向が反映される。「熊取六人組」と言われてきた私の仲間には、その人がいなければ日本だけでなく、世界の学問が成り立たないという仕事をしていた人もいるが、結局、教授には誰もなれなかった。
でも私は教授になりたいと思ったことは一度もない。私は1974年にこの原子炉実験所に来たが、当時の大学の職階はまだ「教授」「助教授」「助手」で、「助手」に採用されてここへ来た。
途中で大学の職階が「教授」「准教授」「助教」という名前に変わった。つまり私は昔の「助手」。37年間「助手」のままということ。ギネスブックに申請すれば37年間最下層にいた教員として掲載されるのではないか。
しかし、私にとってはとてつもなく居心地がいい職階。37年間、誰にも命令を受けたことがないし、誰にも命令をしたことがない。雑用を負う責務もない。人を動かす責務もない。自分の好きなことだけをずっとやり続けることができた。とてもありがたい職階だと思っている。
研究費の面で少なくなるなどの面はもちろんある。国にしっぽを振れば研究費が来たり、企業との共同研究ができるなどのことはある。そんなことをしてまでお金が欲しいと思ったことは一度もない。
神保:「熊取六人組」の後を継ぐような人たちはいるのか。
小出:「熊取六人組」と言われるわれわれは、世代では4人と2人に分かれる。上の4人は64年安保世代に学生だった人たちで、自分のやろうとしているアカデミズムの社会的意味を問われた世代(小林圭二、川野真治、海老澤徹、瀬尾健)。
今ここに残っているのは私と今中哲二だけになった。私と今中はいわゆる70年安保、大学闘争世代。やはり自分のやっている学問の社会的意味を問われた。この共通性が六人組という集団を作った。
だが70年安保でおしまいで、80年安保などなかった。自分の学問の意味を問われないまま、静かな大学で学問をする世代がずっと続いている。ひたすら社会的な問題は考えず、自分の学問をするだけ、そういう人が多いと思う。
この実験所にも約80人の教員がいるが、新しく入ってくる人たちに社会的な問題を考える人はあまりいなかった。共感して仲間になろうとしてくれた人たちはいたが、積極的に誘わなかった。
「六人組」という名前は、当時、中国の文化大革命で犯罪者として後ろ指をさされた「四人組」の名前から、きっと誰かが私たちをそう呼んだのだと思っている。自分たちで「六人組」と名乗ったわけではないが、そう呼ばれても良いと考えた。
周囲からすれば私たちは国家に楯突いているわけだし、面白くないと思っている人は多い。アカデミズムの世界では国家の片棒を担いで原子力を推進しようとする人が多いわけだから。
だから私は私たちの仲間に入ってくれようとした若い人たちを誘えなかった。そういう人たちはこの実験所から去り、別のところで職を得て、それなりの活躍を今でもしている。
初めに決意をして一緒にやってきた「熊取六人組」だけでやってきて、1人は亡くなり、3人はすでに定年で、2人になった。私もあと数年で定年になって辞める。今中も定年で辞めることになる。
私と今中がいなくなった時には、いわゆる大学という世界で原子力に抗議を続ける教員はいなくなると思う。物理学や地震学をやっている人で原子力に抵抗する人はいるが、原子力の世界の中で原子力に抵抗する人間はいなくなるだろう。
(つづく)