鬼束ちひろ『剣と楓』レビュー(2)なぜ「青い鳥」が1曲目なのか

鬼束ちひろ『剣と楓』について、わかったような気分になれるレビューを、数回に分けて書いてみるシリーズ。
今回からは、歌詞について。
鬼束ちひろ自身がつねづね、曲を作るとき歌詞を先に書くと語っているように、彼女の曲にとって言うまでもなく歌詞は最重要。

ただし彼女は歌詞をいったん書いてしまうと、どういう意味なのか深く考えることはしない、とも言っている。鬼束ちひろの作詞についての考え方は、自伝エッセイ『月の破片』p.179~p.184で、彼女自身が詳細に解説しているので、必読。
ここで歌詞を分析するのは、鬼束ちひろ自身の意図をさぐろうというのではなく、解釈の可能性を示したいだけであることに注意。
まず1曲目の「青い鳥」。青い鳥が幸福の象徴であるのは言うまでもない。
この歌詞の中でも、幸せなど、どこにあるのかもわからず、またたく間に飛び去ってしまうものとして記述されている。
「宙をすり抜ける速さで」「幸せなんてどこに」「ロマンを突き抜ける速さで」などの言葉が、つかまえようとしてもつかまえられない幸福の比喩といえる。
「エデン」も原義どおり楽園であり、幸福のある場所と読める。ただし、幸福を求めているのは「迷子」だ。「迷路」に足をとられている。
「孤独よりも悲しい迷子/迷路がこの足を引きずる」
その「迷子」は道に迷っている以前に、まず「孤独」であり、「まただめになってひとり」の状態にある。その「孤独」より、今は「迷子」である状態の方が悲しむべきことというのだ。
「また」だめになってということは、失敗が一度ではなかったことを意味している。
「焼けた線路」は困難な現実をあらわす。現実は灼熱であるだけでなく、時に極寒でもある。「凍えた痛みを温めて/似せた重音にくちづけて」。
「似せた重音にくちづけて」が分かりづらいが、この「迷子」が鬼束ちひろのうつし絵だとすれば、初期の透明感のあるアレンジの作品から、重いロックにも似た音楽性へ近づいてきたことを示しているのかもしれない。
それは「エデン」へと向かう模索の、一つのプロセスに過ぎない。あくまで「くちづけ」にとどまり、それ以上、深入りすることなく、また「エデン」へと歩き出す。
Aメロの1番、2番でくり返される歌詞は「エデンの奥へと」、「どこまでいけるだろう」。つまり「孤独」な「迷子」は、「エデンの奥」に幸福があると信じている。
その「エデン」がどの方向にあるのか、手がかりになるのは、まず今の自分からの逃避。
「駆けてゆく/何から逃れるのだろう/それは誰?/返事さえも通り過ぎる」
この部分は、自分が何から逃れようとしているのか、そんな自分はいったい何者なのか?自分自身に問いかけても、自分の中から聞こえてくる返事さえ、うまくつかめずに通り過ぎてしまう、と読める。
今の自分から逃避すれば、自分が誰なのかも、自分が何から逃れようとしていたのかもわからなくなる。
結果として、いま自分が生きている現実を語るべき言葉をも失うことになる(「言葉を失った現実」)。
さらに、現実ではなく、今までの自分が見ていた夢までも思い出せなくなる。「それを思い出せない夢」の「それ」は「夢」を指している。英語で書けば The dream, it can’t be recalled.
自分自身があてにならないとすれば、手がかりは「羽音」だけになる。「錆びれた羽音は今でも/やっとのことで聞こえてる」。
この「羽音」は自分自身ではなく誰かの声、他者の声を表象している。誰かの声であることは、自分でもかすかにわかっている。「誰かが恋しいのかも」と書かれてあるからだ。
とても大切なのは、最後に残された幸せのある場所、エデンへの手がかりが、視覚的なものではなく「羽音」であることだ。
ここまで来れば、かろうじて聞こえる青い鳥の羽音に導かれて、つかめるかどうかも分からない幸せの方へ、もつれた脚で歩んでいるのが、鬼束ちひろにとてもよく似た存在だと分かる。
その歩みは、言うまでもなくまだ終わらないし、終えることができず、永遠に続くかのように思える。「いつかまた/終にさえも触れられずに」
この「青い鳥」がアルバムの最初の曲になっているのは、その歌詞が、ときにプライベートな幸せを犠牲にしても、音に導かれた終りのない探求、音楽性の探求を象徴しているからだ。
これほど鬼束ちひろのニューアルバム『剣と楓』のオープニングにふさわしい歌詞はないだろう。
青い鳥 - Single - 鬼束ちひろ青い鳥 – Single – 鬼束ちひろ
(つづく)