上杉隆氏は日本の社会に絶望するのが遅すぎた

フリージャーナリストの上杉隆氏は、日本の記者クラブ制度批判の急先鋒だ。

上杉隆氏の著作『ジャーナリズム崩壊』(幻冬舎新書)については、以前この「愛と苦悩の日記」でも取り上げたことがある。
「上杉隆著『ジャーナリズム崩壊』を読んだ」(2009/01/18)
だが、ついに今回の福島原発のような大きな事件にいたっても、日本の記者クラブ制度が相変わらずに既得権益のしがみつく現実を目にして、どうやら今年いっぱいで無期限活動休止するらしい。
2011/04/01「無期限活動休止のおしらせ」(上杉隆 公式ウェブサイト)
民主党政権に限らず、日本政府と記者クラブのもたれあいで情報が隠蔽されているという指摘はもっともだが、はっきり言って、それって日本という国に数々存在する悪しき慣習の一つでしかない。
記者クラブ制度を非難するとき、上杉隆氏がよく「アメリカでは云々」と、少なくとも日本よりはましな米国の情報公開を引き合いに出すが、この点に上杉隆氏の使命感のようなものの限界がある。
つまり、日本の記者クラブの情報隠蔽など、今回の福島原発事故ように世界的に影響のある事件の場合は、海外のより自由な報道によって、いとも簡単に化けの皮がはがされてしまう。
日本政府が自国の国益を守ろうとして情報を隠しても、諸外国も同じように自国の国益や価値観を守ろうと、日本に情報公開を迫るべく外圧をかけるからだ。
米国に記者クラブ制度がないこと自体は、絶対的に正しい価値観ではなく、世界に無数に存在する多様な価値観の一つにすぎない。たまたま米国の建国以来の歴史の中で、米国では自由な報道という特定の価値観が形づくられただけだ。
まったく歴史の違う日本で、記者クラブ制度のような同業者の馴れ合いのない、米国のように自由な報道が確保されないのは、いってみれば当然のことだ。だって、日本は日本であって米国ではないのだから。
なのに上杉隆氏は日本の記者クラブを解体することに、ジャーナリスト生命をかけている。
世界中に存在する様々な報道の形態の中の一つとして俯瞰すれば、日本という小さな国に根づよく残る記者クラブ制度なんて、ジャーナリスト生命をかけてまで壊す価値のあるものだろうか。
情報を隠す人たちが存在するということは、その反対側に、真実を知ることよりも、自分の利害関心が満たされることを求めている人たちが存在するというだけのことだ。
本当に日本国民の大多数が真実を知りたいと思っているなら、極端にいえば、英語ができる人に米国のニュースを翻訳してもらって、日本政府の発表ではなく、米国の報道だけを信じるなどの行動をとるはずだ。
多くの日本人がそのように行動せず、お笑い芸人やタレントのコメントを聞いて納得してしまっているのだから、この視聴者にして、この記者クラブあり。それだけのことだ。
誤解を恐れずにいえば、日本の人々が記者クラブの存続を求めているのである。
そんな日本社会で、記者クラブだけを狙い撃ちして解体しようとしても、報道の受け手が心の奥底では真実を知ることを望んでいないなら、遅かれ早かれ記者クラブに代わる、新たな情報隠蔽のしくみが出来上がるだけだ。
そういう社会システムの上に運営されている、日本という国に、あきれてモノが言えないというなら、上杉隆氏はさっさと日本など見捨てて米国に永住すればいい。日本など沈むに任せればいい。
僕自身、一人の平社員として民間企業で働いているわけだが、いったん組織の中に入ってしまえば、たとえ内部告発が制度として存在したところで、情報公開など期待すべくもない。
むしろ、組織の利益をまもるために情報の出し方を操作するのは、会社員としての仕事の重要な一部である。そのことが個人として倫理的にガマンならないなら、僕は会社を辞めるしかない。しかしそれでは生活していけない。
そのように個人の生活を守るために、個人として食いつないでいくために、日本のあらゆる組織人は、自分の属する組織の利益のために、情報の出し方を意図的にコントロールしているのだ。東京電力の経営層や従業員たちも例外ではない。
日本はそういうシステムの社会なのだ。
上杉隆氏の最大の欠点は、あきらめるのが遅すぎることかもしれない。今年いっぱいで無期限活動休止するということは、12年もかけて、やっと日本社会に可塑性がないことを悟ったらしい。