震災下の日本人の美徳は、政府・東電トップの機能不全と表裏一体

大震災後、被災者が落ち着いて行動していること、日本人の規律や結束力、助け合いの精神などを、海外メディアが日本の「社会的資産(social assets)」として褒めたたえている。
…などといい気になっている日本人はごく少数だと思うが、こうした日本の「社会的資産」と、民主党政府や東京電力のトップマネジメントの機能不全は、ご承知のように同じコインのオモテとウラでしかない。
まず、日本人にほんとうに上述のような美徳があるとすれば、すでに起こってしまった過去のことに対する美徳であって、これから起こる未来のことに対しては、驚くべき無頓着さを示すのが日本人というものだろう。
日本人に、これから起こるかもしれない未来のことについて、過剰反応を示さず、冷静に準備をする資質があれば、福島原発の事故はこれほど大きくならなかったはずだ。
以前にも書いたように原発問題は、原発推進派と反対派と地元の相互依存関係に成り立っている。ヒステリックな反対派をおさえこむために、電力会社側をふくむ推進派はリスクを小さめに評価しつつ、原発利権を作り出して地元を懐柔する。
原発の推進は、科学的真理の追究ではなくビジネスである。反対派を説得するために、推進派が原発のリスクを小さく見積もるのは、きわめて合理的な行動だ。
一方の反対派は、つねにオール・オア・ナッシングの考え方で、原発全廃か、「100%安全な」原発を要求する。原発のリスクを正確に見積もる基礎データがない以上、これも合理的な行動だ。
日本人は、これから起こるかもしれない未来のことについては、このような相互依存関係を作ることでしか対処できない。
その理由は、未来の出来事について、責任をもってコントロールする意思を誰も持たないからだ。いわゆる山本七平のいう「空気」による決定である。
未来の出来事については、誰が決めたのかの記録を残さずに、いつの間にか決まったようなやり方で意思決定する。そこには合理的な根拠がなく、いざ何かことが起こると、やはり合理的な根拠なしに犯人さがしが始まる。
犯人もやはり「空気」によって非合理的に特定され、犯人をいっせいに攻撃することで共同体内部の納得感をつくりだす。その納得感が、起こってしまった事実に対するあきらめをもたらし、大災害の状況下でも規律を維持する。
いま日本人が、海外から見ると美徳に見えるような行動をしているとすれば、地震の被害者という大きな「ムラ」から、菅首相や東電社長などの犯人を追放し、とことん叩くことをエネルギーとして結束しているからだ。
一方、それぞれの小さな「ムラ」の内部では、どういう力学が働いているか。その人だけは悪くないという存在を作り出すことで、「ムラ」自体の崩壊を防いでいる。
日本のいろいろな組織も同じで、日本の典型的な企業は、トップに罪はないと仮定することで組織の結束を維持する。たとえ明らかにトップに責任があっても、そうではないという虚構をつくりだす点がポイント。
たとえば日本企業で、各従業員の業務分担のすき間に落ちて、だれもやらない仕事を、誰かが拾うという助け合いの精神は、責任のあいまいさと表裏一体だ。
組織の内部で責任を追求する場合でも、合理的に追求するのではなく、「誰を追放すればムラを維持できるか?」という観点だけから、責任を追求すべき犯人を決める。そのとき、責任を追求する本人であるトップが犯人にならないのは当然だ。
そして、東京電力や民主党という、個々の「ムラ」を叩いている、日本人全体も一つの大きな「ムラ」である。この「ムラ」も、その人だけは悪くないという存在をつくりだすことで、結束を維持している。言うまでもなく天皇家のことだ。
僕も個人的には、被災者を見舞われている天皇皇后両陛下の姿をテレビで拝見すると、正直いってホッとする。もし日本に天皇制がなければ、これだけ理不尽な目にあっている人たちの不満や怒りが、どのようなかたちで爆発するだろうかと思うと、恐ろしくなるからだ。
以上のように、福島原発事故が人災だとすれば、その原因と、被災者の規律や日本全体の助け合い精神は、同じコインのウラとオモテに過ぎない。どちらかを根本的に変えれば、もう一方も同時に変わる。
このどちらにも属さない中立的な立場は、日本国内で生活している限りあり得ない。誰もがつねにすでに、こういった日本社会を支える一部分として、このようなシステムに「汚染」されている。