鬼束ちひろ『papyrus』2011年04月号記事レビュー(6)

『papyrus(パピルス)』2011年04月号の鬼束ちひろ特集について、まだまだレビューは続く。

次章のタイトルは「タトゥー」。今回のアルバムでも「CANDY GIRL」という曲名でニアミスしている中島美嘉のタトゥーは、ファッション誌のグラビアの仕事もあるせいか、手首の内側というごく控えめな場所に入っているが、鬼束ちひろの左腕のタトゥーはロングスリーブでなければ隠せない。
 私のタトゥーは、簡単に言っちゃえば『ドラゴンボール』のかめはめ波みたいなもの。体の中のパワーを一カ所に集中させてビームのように放出させる、子供の頃にみんなが真似したあの技だ。ファッションのためのタトゥーとは違う。必要に迫られていれた、しるし。
 どうして刺青なんかってよく聞かれるけど、一番の理由は、私のこのありあまるパワーをコントロールしたいっていうこと。曲を書いたり歌を歌ったりすることに、パワーは必要不可欠。だけど、自分でもそれをうまくコントロールできなくなってしまうことがときどきある。不眠も、過緊張も、泣き上戸なところも、暴れん坊冬将軍なところも全部、パワーが溢れていることと無関係ではないと思ってる。
彼女にとってのタトゥーは、躁うつ症状に対する民間療法だと言っても乱暴なまとめではないだろう。タトゥーで精神的なアップダウンがコントロールできるなんて、医学的、科学的根拠は何もないはずだ。科学的根拠も何もないからこそタトゥーなんだろうけれど。
「才能の塊で苦しいんだろうね」
 初めて会ったカメラマンさんに、こう言われたことがある。才能があるかどうかはわからないけれど、いつも苦しいのはその通りだった。だから拡散しているパワーを一カ所に封じ込める手段が必要だった。それが私のタトゥーの意味。
この部分も実質的に何の説明にもなっていない。タトゥーにパワーを集める効果があるという説明に、なるほどと納得する人はいないだろうから。
 どこに入れるかっていうのは、直感で決めた。左腕の肘下から手首まで。理由を聞かれてもわからないけど、パワーを溜めるならここしかないと思った。そのへんはアルバムのタイトルを決めるときの感覚と一緒。私は歌うとき、左腕の動きが独特だって言われるけど、もしかしたらそのことも関係があるのかもしれない。
タトゥーを入れること自体に合理的な説明がもともとないのだから、タトゥーを入れる場所にも合理的な説明があるはずがない。
 タトゥーは大好きな街NYで入れることにした。覚悟を決めてドキドキしながら行くっていうよりは、ちょっとしたノリで彫ってしまうほうが気分的には合っている。だから二回目にNYを訪れたとき、現地の人にお店を紹介してもらって、ショッピングをするような感覚で行ってみた。
覚悟を決めて行くような行き方でタトゥーを彫れないのは、あまり事前にタトゥーを彫ることについて考えすぎると、また不安の悪循環に陥ってしまうという精神状態を、彼女が自覚しているからだろう。拡散しているパワーを集めるという比喩も、さまざまなことに対する不安におそわれ、その不安がさらに不安を呼ぶような精神状態がつづいている結果、集中力があちこちに分散してしまうという意味なのかもしれない。だとすれば、その根本的な治療は、不安の悪循環が始まるスイッチが入らないようにすることであって、すでにあちこちで始まっている不安の悪循環を一カ所に集約することではないはずだが、鬼束ちひろはそこまで賢明ではないということか。
 女の子ってよく、ティンカー・ベルやキティちゃんみたいなキャラクターものとか、背中に天使の羽みたいなラブリーなタトゥーを入れたりする。そういうのを見てかわいいのはわかるんだけど、おばあちゃんになったときにどうするんだろうって思ってしまう。スズメやツバメみたいな小鳥を彫って、年を取ってから「何これ、カラス?」って言われるのもちょっと悲しいし。鳥獣戯画とか地獄絵図みたいな本格的でオドロオドロしいのも、絶対にパス!
彼女の価値判断の規準は、アーティストらしく独特だと思う。一般人からすればタトゥーを入れる時点ですでに十分「オドロオドロ」しい。どんなタトゥーを入れるかは誤差の範囲内。その誤差の範囲内について、ラブリーなタトゥー、小鳥、オドロオドロしいものなど、細かい差にこだわっている時点で、鬼束ちひろはタトゥーについてすでに一種の「過緊張」状態というか、こだわりすぎのように思う。
 イメージは最初から固まっていた。まずトライバル風の柄で、手首と肘下の部分をブレスレットみたいにぐるりと囲む。これはパワーを封じ込める、結界みたいな役割。ふたつのトライバルの間には、十字架のような模様とトゥーフェイスを入れて、手の甲から腕にかけて星を散らした。十字架のような模様は、キリスト教のモチーフが好きだから入れたのだけど、普通の十字架は嫌だったから自分でデザインした。トゥーフェイスには、全体で唯一ここだけ青とネオピンクの色を刺してもらった。星を入れたのは、ちょっとだけチャーミングにしたかったから。マイケル・ジャクソンが好きだから、「MJ」ってどこかに入れようと思ったんだけど、マーク・ジェイコブスに間違えられるのも癪だし、そうでなくても世の中にはいろんなMJがいるからやめといた。
最初から固まっていた、というのは、彼女特有の誇張表現と思われる。じっさいには、イメージを固めてからタトゥーを入れる決心をした、というだけのことだろう。ここに書かれている程度に裏付けのあるデザインにするには、かなりの期間、考える必要があるはず。彼女なりの熟慮の過程があり、すべて決まった後に、あたかも最初にすべてが一気に決まったかのように考える。鬼束ちひろには、そういう思考のクセがあるような気がする。自分の熟慮の結果を、あたかも最初から決まっていた運命のようにとらえるクセ。
「うわあ、かっこいい! でも、怒られるかも!」
 タトゥーの入った腕を最初に見たとき、感動しつつも両親の顔を思い出して、ちょっとひるんでしまった。
「これ以上、増やさんといてね」
 私の性格を知り尽くしている母は、何を言っても後の祭りと思ったのか、腕を見てひとことだけそう言った。
「あんまりいいことじゃねえけどなあ」
 父もそれ以上は何も言わなかった。
 昔からいろんなことをすぐに後悔してしまうタイプだけど、タトゥーは数少ない後悔しなかったことのひとつになっている。むしろ今は、スッキリしているくらい。なぜかっていうと、これでとうとう、普通のおばさんにはなれないことを余儀なくされたから。自分の中で、覚悟ができたっていうのかな。おばさんになってから、この腕で餅をこねていたりしたら、それはそれでかなりイケてると思うけど。
本当はどうかは別として、タトゥーを入れた後、まっ先に両親の叱責が頭に浮かぶというのは、彼女の精神的な生活圏が、歌手を目指して上京したときから、じつはあまり変わっておらず、まだ家族の中に深く根ざしていて、意外に家族という共同体に依存した保守的なものであることを示している。家族から承認を得ているからこそ、鬼束ちひろは自分の意に反してふりまわされるような生活を送ることができるのだとも言える。

 すごく気に入っていて、自分の一部になっていると思う反面、パッと目に入ったりすると、いまだに見なれなくてドキリとすることもある。そして自分の体に刻まれた模様を、じっと見つめる。不思議な感覚。眠れない夜に不安に襲われそうなときは、服の上から触っていると、自然と気持ちが落ち着いてくる。タトゥーは私にとって、お守りのようなもの。
僕もパニック障害と診断されたことのある一人として、不安に襲われそうなとき、自分のおかれている状況に意識を集中しすぎて、不安が不安を呼ぶ悪循環におちいるのを防ぐために、たとえば携帯電話のゲームで気を紛らしたり、不意にまったく別の遠く方に視線を移してみたりすることがあった。不安の悪循環が始動しないように、そういった工夫が必要なことは確かだが、タトゥーのようなかんたんに取り消せないものに固定化するのは、あまり良くない選択だという気がする。何年か経つと、逆に不安の悪循環におちいるスイッチになる可能性もあるからだ。
「一度入れたら、もっといろんなところに入れたくなるよ」
 周りの人は言うけれども、パワーを一カ所に溜めるっていう目的は果たしたのだから、私のタトゥーはこれで完了。新たな模様を入れるつもりはない。
そうは言っているが、鬼束ちひろは単にタトゥーにも飽きただけではないかと思う。
 タトゥーの入った腕でステージに立つ私を見て、「こいつ、気が狂いやがったな」と思う人もいるんだろうな。もしかしたら「昔とは違う!」ってショックを受けて、離れてしまう人もいるのかな。「いいぞ、もっとやれー!」って逆に好きになってくれる人もいるかもしれない。いろんな人がいろんなことを思うだろうけど、これが今の私。
このように、鬼束ちひろは2ちゃんねらーや一部のファンの反応をすでに予測した上で行動におよんでいるので、こういった凡庸な反応をすることに意味はない。ただ、鬼束ちひろ自身の、アーティストとして生きて行くしかない、という決意はいいとして、あくまで彼女は商業音楽の歌手であり、現代の音楽業界は、もはや1970年代以前のように、アーティストが芸術家たりえた時代とは違うのだという、大きな社会的文脈まで自覚しているのだろうかと思う。僕自身も、歌手がバラエティー・タレント化するのはイヤだけれど、そうやって観衆にある意味迎合しなければ、自分自身の芸術性さえ認めてもらえないのが、完全に商業化された今の音楽業界で、これは数百人のアーティストが反旗をひるがえしたからといって、変えられるものではない。
 もう普通のおばさんにはなれない私。体だけが大きくなったガキのままの私。このままファンキーに行くしかないね。
今の鬼束ちひろの中には、たしかに暴れん坊の少女を見い出せる。一方で、僕自身も含め、商業音楽を支えている凡庸な一般人は、30歳の人間には30歳の分別や落ち着きを求めるのも真実だ。鬼束ちひろがロックを標榜するのは、そうした大人の分別への永遠の抵抗として分かりやすいが、2011年という時代にそういう意味でのロックが商業音楽として成立するとは限らない。昔からよく言うように、歌は世につれ世は歌につれ、だから。
剣と楓 - 鬼束ちひろ剣と楓 – 鬼束ちひろ