鬼束ちひろ『papyrus』2011年04月号記事レビュー(5)

『papyrus(パピルス)』2011年04月号の鬼束ちひろ特集について、まだまだレビューは続く。

次章のタイトルは「インソムニア~不眠症~」。
 インソムニア(insomnia)の意味は、不眠症。
 音の響きが気に入って、ファーストアルバムのタイトルにした。タイトルの決め方は、いつもそんな感じ。大切なのは、語感と音の響き。だけど言霊というものは本当にあるのかもしれないって、いまさらながら愕然としている。『インソムニア』をリリースして間もなく私は不眠症になり、十年近く経つ今も眠れない日々を過している。
鬼束ちひろが「言霊」なんて、らしくない感じがするが、年をとったせいだろうか。ちなみに僕は彼女よりかなり年上だが、良くも悪くも合理主義者なので、言葉にしたことが現実になるなどというオカルトは信じないし、考えもしない。
 異変に気づいたのは、セカントアルバム『This Armor』を発表して、二度目の全国ツアーを行っていた二〇〇二年のこと。当時はそれこそ、寝る暇もないくらいめちゃくちゃ忙しい日々を送っていたから、少しくらい眠れなくても深刻には思っていなかった。疲れすぎて逆に眠れないことは、よくあるものだし。だけどそれが、一日、二日の話じゃなくなってきた。体は疲れ切っているのに、来る日も来る日も深い眠りが訪れない……。
「なんか眠れないんだよね、最近」
 スタッフにぼやいていた矢先、世にも恐ろしい体験をした。ツアーのステージで幕が開いた瞬間、お客さんの顔がすべて悪魔に見えてしまったのだ! 逃げ出したい気持ちを必死にこらえて歌う続ける。同じような状況が、その後のライブでも立て続けに起こった。
「これ以上ステージに立つのが怖いんだけど」
 私の訴えを聞いて、様子がおかしいと思ったプロデューサーが調べてみると、それはパニック・ディスオーダー(パニック障害)の症状のひとつだという。そしてその病気は、不眠を併発しやすいということも判明した。

プロデューサーが調べただけなのか、ちゃんと医者にかかったのかは不明だが、睡眠導入剤を処方してもらっているようなので、医者にはかかっているのだろう。ただ、時間的な前後関係が、鬼束ちひろが書いているとおり、不眠があってからパニック障害の発作が続いたということなら、不眠症は単なる症状ではないのか。また、糖分が高く、カフェインを含むコカ・コーラの愛飲者であることは、不眠症と関係あるはずだが。
 最初の頃は睡眠導入剤を飲めばよく眠れたから、そんなに苦痛ではなかった。むしろ病名がわかって、ほっとしたくらい。だけど不眠症は、そんなに生易しいものではなかった。本当に恐ろしかったのは、三、余年経って薬への耐性がついてきた頃。決められた量の薬を飲んでも効かなくなってきて、一錠、二錠と飲む量が増えていく。薬が残り少なくなっていくと、眠れない夜を想像して不安に襲われる。薬の量を間違えて、朦朧としてしまうこともよくあった。
これを読んでも、不眠症そのものが問題なのではなく、眠れないことに対する過度の不安が問題だということが分かる。観客の顔がすべて悪魔に見えたのも、舞台に立つことに対する過度の不安だろう。何か気になる事件が一度起こってしまった状況に、先行して不安を感じるようになり、その不安がじっさいに状況を悪化させ、さらに次に同じ状況になったときの事前の不安を増幅するという、不安の悪循環がある。これを睡眠導入剤だけで治療するのは単なる対処療法で、長期的な治療としてあまり効果がないような気がする。むしろ、対象が睡眠であれ舞台であれ、不安そのものを感じにくくするような薬の処方が望ましかったのではないか。あとは、彼女自ら「暴れん坊の本性」と書いているだけあって、じつは躁状態があった可能性もある。そうするとまた処方が違ってくる。いずれにせよ、まともな医者にかかっているのか、はなはだ疑問だ。
Insomnia - 鬼束ちひろInsomnia – 鬼束ちひろ
 眠れない夜というのは、自分との闘いだ。私は性格的に、眠れないから外へパーッと遊びに行こうって思えるようなタイプでもない。お酒が飲めないから、寝酒に頼ることもできないし。気が遠くなるほど長い夜を、ひとりでどうやって乗り切ればいいの? すべてはその闘いだった。頭と体はすっきりと覚醒しているから、目をつぶって横になっていても考えることを止めることはできない。その思考によってどんな精神状態に辿り着くのかは、自分でさえわからない。いつの間にか、夜が来るのを怖がるようになっていた。
眠れないからといって、夜遊びに出かけられる性格でもなく、お酒も飲めないという大人しさとと、ファッションでの自己顕示欲の強さに、かなり矛盾がある気がする。やはり双極性なのでは?
 私の場合、不眠症は過緊張っていうもともとの性格と、深く関係しているのだと思う。本番前に極度の緊張状態に陥るのは、大勢の前に出る立場の人ならそれほど珍しいことではないし、むしろ自然なことだって聞いている。私の緊張ぶりもかなりのもので、ライブの数日前から体がこわばって、薬が効かなくなってしまう。眠れない日々が続くと、疲労感は当然激しくなる。もしもステージ上で体力が尽きてしまったら……と想像すると、不安で居ても立ってもいられなくなる。
これが安定剤を飲み始めて数年後の話なら、単に処方されている精神安定剤が短期型で、効かなくなっているだけという気がする。この文章を読めば読むほど、治療方針の変更の余地があるのではないかと思うのだが。
 ステージを無事に終えることができたとしても、厄介なことに眠れない日々はさらに続く。体はボロボロのはずなのに、緊張がなかなか解けてくれないのだ。
 二〇〇八年、渋谷のオーチャードホールで四年八カ月ぶりに単独ライブをしたときは、本番の前後四日間くらい、ほぼ眠れなかった。おかげでライブの数日後に、私は二回気を失った。一回は自宅で、もう一回は道を歩いているときに。体が強制的にシャットダウンしてしまったっていうわけだ。
 外で倒れたときは、幸いなことにマネージャーと一緒にいた。たまたま通りかかった看護師さんが、応急処置をしてくれたのもラッキーだった。そのまま救急車で病院へ運ばれたらしいんだけど、気がついたら頭にとんでもなく大きな瘤ができていた。
「あのときは、そのまま亡くなりはるかと思いましたよ」
 マネージャーにおっとりした口調で言われたけれども、実際は笑い事じゃなかったはず。単に眠れないだけなら、まだ我慢はできる。怖いのは、ところ構わず気絶してしまう恐れのあること。下手したら、脳挫傷を起こしかねない。改めてことの深刻さを痛感した。
「ちひろちゃんは、体力あるよね」
 眠らない日々を過ごしていることを知っている人に、おかしなところで感心される。たしかに私は小さい頃からずっと運動をしていたせいか、やたらと体力があるのだ。だから普通の人ならバテそうな睡眠時間でも、なんとかもってしまう。それでも最近は、知らないうちにソファで寝ていることもたまにある。そんなときは目が覚めると「私も年を取ったなあ」ってしみじみ思う。だからもっと年を取って体力が衰えれば、自然に眠れるようになるかもしれないって淡い希望も抱いている……。
不眠症が致命的な問題にならないほど体力があるなら、逆に不眠症が治るほど体力が衰えたら、こんどは確実に創作活動やライブができなくなるのではないか。体調について楽観するのは自由だが、治療方針を見直した上で、もう継続的に治療をしたらどうだろうか。
 眠れない夜の過ごし方にもだんだん慣れてきた。最近では、夜の十時くらいになると今日は眠れないなっていうのがわかるようになってきた。そんなときは、さて今夜はどうやって過ごそうか、と考えてみる。不眠症になって間もない頃は、とてもじゃないけど曲を書く心境になんてなれなかったけど、今は書けるかどうかは別として、とにかく書いてみようとする。書けそうなときは、超ラッキー! 長い夜を過ごす方法が見つかって嬉しくなる。
 だけど今でも「どうしていつまでも眠れないんだろう」って、無性に悲しくなる夜もある。そういうときは大泣きすると、いつの間にかソファで眠って朝が来ていたりする。いわゆる泣き寝入りってやつだ。ついこないだも泣き寝入りをして朝起きたら、床に雪見だいふくの空き箱が五つも転がっていた。「またやっちゃった……」と思わず苦笑。思いっきり泣いてぼんやりとした意識のまま、いつの間にかアイスを食べまくっていたらしい。
まあ、無意識のうちに雪見だいふくを五箱も食べて、「またやっちゃった」なんて、ちーちゃんカワユス、と反応したくなる人もいるのだろうか。実年齢は三十歳でも、精神年齢は幼いままというのは、誰にでもあることだ。子供のころ想像していた三十歳のいい大人と、実際に三十歳になってみた自分を比べたとき、いかに自分の考え方が子どもっぽいか、愕然とすることもある。賢明な治療ができていないところにも、アーティストであるだけでなく、同時に平凡な三十女でもある鬼束ちひろの側面が見える。
 大人になって、世の中と折り合いをつけることは、ある程度できるようになったけれども、曲作りと眠りに関しては、いまだアウト・オブ・コントロール。いつかどちらも、自由自在に操れる日が来ればいいんだけど。
そういうわけで、ちゃんと治療をしましょうとしか言いようがない。たぶん鬼束ちひろは、自分の不眠症はこころの病気、体は丈夫と思い込んで、こころの病気の方は年を取る以外に有効な治療法がないという、ヘンな割り切りをしている。しかし、こころの病気は、脳内の神経伝達物質の異常という意味では、からだの病気。不眠症をからだの病気として、いろいろな治療法を模索すれば、曲作りについてもコントロールできるようになるかもしれないと思うのだが。
剣と楓 - 鬼束ちひろ剣と楓 – 鬼束ちひろ
(つづく)