鬼束ちひろ『papyrus』2011年04月号記事レビュー(1)

『papyrus(パピルス)』2011年04月号がAmazon.co.jpで売り切れて、古書にプレミアがついたので、そろそろ鬼束ちひろ「私のすべては私のもの」のレビューでもしてみよう。

これはインタビュー記事ではなく、鬼束ちひろ自身によるエッセーのような文章なので、近刊の『月の破片』と内容が重複しているかもしれない。
まずは例の暴力事件から。引用部分の文字色は変える。
 十年くらい前、『死ぬかと思った』というタイトルの本が流行った。こっ恥ずかしい”臨死体験”を羅列した本で、あまりの間抜けっぷりに何度も吹き出しそうになった。冗談抜きに命の危険を感じた出来事でも、後々思い出すと笑えてしまうことは意外と多い。
 私も三十歳になる直前に、死ぬかと思う体験をした。ある男にボッコボコにされたのだ。
 だけど元気に生き続けている今となっては、そんなとんでもない顛末でさえ、ちょっとしたギャグみたいに記憶に残っている。
 その人とは、事件の二週間くらい前に私がよく行く雑貨屋さんでたまたま出会った。
 おっきい人だなあ、っていうのが第一印象。格闘家のようにマッチョで厳つい雰囲気。だけど威圧感はなかった。九歳上のその人と私は、すぐに意気投合した。== その人はクレバーで話も面白くて、センスもいい。好みのタイプとはまったく違っていたけれども、とても魅力的な人だった。
 なのに数日後、まさか自分がマジ蹴りされるなんて!
ここまでが事件の導入部だが、本当にちいちゃん(=鬼束ちひろ)自身が書いたんだろうかというくらい、ある文章のタイプとしてとてもうまい。最近の外見から、彼女のことをついに気が狂ったかと書いている人は、彼女の本当の頭の良さが理解できない程度の知性しかないということだ。
 事件の日の夜中、彼は酔っぱらって帰ってきた。彼は東京に住む場所がないらしく、出会って間もなく私のところに寝泊まりしていた。私はというと、ちょうど睡眠薬が効き始めて、眠くなってきた頃だった。
「おかえり。私、もう寝るからね」
 そう言って、寝室へ行って眠りについたのを覚えている。酔っぱらっていることを抜かせば、彼の様子にいつもと違うところは特になかった。
「おい、起きろよ!」
 朝の六時頃、勢いよくふとんをはがされた。
 何々、どうした?何が起こったの? ただでさえ寝起きのいい私は、一瞬にして意識が冴え渡る。
 ウェイク・ミー・アップ!
 ワム!の「Wake Me Up Before You Go-Go」のフレーズが、頭の中で鳴っていた。
 彼は怒っているように見えた。理由なんて、もちろん知らない。でもなぜか、とてつもなく怒っている。動物的直感で身の危険を悟った私は、得意の素早い動きで、ハムスターみたいにシュシュシュとベッドから逃げ出そうとした。
 バッシーン! 追いかけてきた彼から、いきなり平手打ちを食らった。一瞬、頭の中が真っ白になる。
 は? どういうこと? 今、私のことを殴ったよね、あんた?
 暴れん坊のこの私が、人様に殴られて黙っているわけにはいかない。驚きや憤りよりも先に、反射的に彼の頬を殴り返していた。
 ささやかな反撃が、彼の本性を完全に目覚めさせてしまった。ウェイク・ミー・アップ!
 回し蹴りが胸に直撃。思わず咳き込んだ。
 息をするのもつらいのに、考えるのは間抜けなことだ。
 マネージャーの熊谷さんの顔が脳裏に浮かぶ。しかも出会ったばかりの頃の熊谷さん。ああ、これが走馬灯っていうやつか……。
「俺の目を見ろっ!」
 怒号とともに、鋭い痛みに打ちのめされる。今度はまさかの目つぶしだった。
 つぶされたら、見れねーよ! 心の中でどんなに叫んでも、力の差がありすぎてもうされるがままだった。ゴンッ、ゴン……、冷たい床に顔面を叩き付けられる鈍い音が、部屋中に響いている。
 床一面が、血の海になっていた。これってやっぱり、私の血なんだよね?
鬼束ちひろがこういう文章を書けるのは、たぶん映画をたくさん観ているせいだろう。エッセーや小説というよりも、カット割りの短い映画のシーケンスが目に浮かんでくる。ここで一つのシーケンスが終わる。
「ごめんな」
 どれくらい時間が経ったのかわからないけど、彼の声が耳に入ってきた。静かで落ち着いた口調だった。
「俺、こうなっちゃうんだよ。好きだけどやっちゃうんだよ」
 何も返すことができず、言葉は虚しく宙を漂う。
 男物のTシャツを着せられた私は、鏡の前に立つように促された。数分前までの殺気は、悪夢でも見ていたかのように跡形もなくなっている。本当にさっきまでと同じ人なのか、わからなくなってしまいそうだ。
 鏡の中の私は、髪の毛がボサボサに絡まって、顔は血で真っ赤に染まっていた。彼は私の後ろに立つと、まるで甘い言葉をささやくかのように優しく言った。
「似合うね。写メ撮っていい?」
 やばい、殺されるかも……。
 真っ赤に染まった顔から、血の気が引いていく。顔色の変化を悟られないのが、不幸中の幸いだった。
意外かもしれないけれど、鬼束ちひろは本気で死を恐れているように読める。というより、本気で死を恐れるようになれた鬼束ちひろは、たしかに生きる意思に満ちている。ぜんぜん関係ないけれど、正しくは「跡形もなく消えている」だ。
 こんな状況でも、不思議なことに頭はかなり冷静だった。こんなに狂った状況だからこそ、冷静になれたのかもしれない。彼の様子を静かに見守る。さて、どうやってここから逃げるべきか?
 思いっきり暴れて疲れたのか、彼はすでにうとうとしていた。
「喉渇いた。コーラ飲んでくる」
 さり気なくそう言って、キッチンへ向かう。陸上部時代、短距離走で鍛えた俊敏さを発揮するのは、今しかない。玄関へ方向転換して素早く鍵を開けると、エレベーターを目指して一気に走った。後ろでガチャンとドアの閉まる音がする。もしかしたら目を覚ましてしまったかもしれない。
「エレベーター、早く来てーーー!」
 ほんの数秒が、何分にも思えた。待ちきれず、非常階段を転げ落ちるようにして駆け下りる。そして血だらけのまま、管理人室へと逃げ込んだ。
 顔面骨折、肋骨骨折、多数の切り傷。病院に運ばれ、全治一カ月と診断された。
 管理人さんの通報で警察が駆けつけたものの、彼は隙を見計らって、私の部屋から逃げ出していた。
 逃げる際、彼は殴ったことと同じくらい許せない罪を犯していた。
 私と彼の共通点は、マクドナルドのグッズが大好きということだった。私は関連の玩具収集をちょっとした趣味にしていて、ひと昔前にアメリカで展開されたヴィンテージものの人形を七体持っているのが自慢だった。トイレに飾っていたそのかわいい人形たちが、無残にも便器の中にぶち込まれていた。私が何よりも大事にしているのを承知の上で、それだけをわざわざやって逃げ出したのだ。
「悔しい! ほんっとに悔しい!」
 殴られたことはもちろん悔しかったけれども、そのせこい行動に無性に腹がたった。ふざけるな、私の人形を返せ! そう思ったけれども、悔しさのあまり結局自分ですべてを買い直してしまった。
 あんなにひどい目に遭ったのに、私という人間は余計なところで情を発揮してしまうらしい。事件以降、行方をくらましていた彼に電話をかけてみた。
「殴られたことは、別に怒ってないから」
 私が言うと、
「うん、わかった。悪かったな」
 と向こうは言った。
「俺のほうは、大変なことになってるんだよ」
 そう言われたときはさすがに、そんなの知らんよ、と思ったけれど。
細かい指摘ばかりで申し訳ないが、やはりこの文章はまぎれもなく鬼束ちひろ自身が書いたものだ。その証拠に「逃げる際」という場違いな書き言葉が使われているし、「発揮」という言葉が二度出てきている。らしい、文章だと思う。
 事件が世間で報道された頃には、自分の中ですでに過去の出来事になっていた。どんなふうに報道されたのかもわからないし、大して興味はない。
 ただひとつ言えるのは、医者もビックリするほどの驚異的なスピードで傷が治っていたことだ。体が丈夫なことは、自慢のひとつ。全治一カ月と報道された時点で、顔の傷はほとんどわからなくなっていた。
 ニュースになった直後、あるショップでたまたま記念撮影をしたので、その写真をショップのブログにアップしてもらった。そこには元気にセクシーポーズを決めた私が写っている。
「鬼束ちひろってボコボコにされたんじゃないの?」
「何やってんの、この人?」
 ブログを見た人は、”全治一カ月”の私の姿に混乱したらしい。やったね、狙い通り。
言うまでもないことだが、このショップというのはgalaxxxyのこと。セクシーポーズを決めている鬼束ちひろを、とても冷静に見つめているもう一人の鬼束ちひろの視線があり、そこにはさらにいたずらっぽい気持ちまで隠されていたことに、彼女の頭の良さをもっと見なければ。
「肥やしにしろ」
 事件後間もなく実家に帰ると、父は怒るでも同情するでもなくそう言った。まるで息子にでも言うようなセリフだ。どこまでもロマンの人。海の男だから、しかたない。
 彼にまつわるよくない噂を、「実はね……」みたいな感じで後々いろんなところで耳にした。それでも魅力的な人だったという思いは、今も変わらない。
 すべては、たまたま私の身に降りかかった出来事に過ぎない。たまたまあの人に出会って起こっただけのこと。人を見る目をもっと養ったほうがいいとか、そう簡単に心を開かないほうがいいとか、周りの人はいろいろ言いたくなるかもしれないけれども、そんな次元の問題じゃないと私は思っている。
 父の言う通り、肥やしにしようとは思うけど、教訓にしたいことなんて何もない。死ぬかもしれないと思ったけれども、今もこうして生き続けている。それでいいんじゃない?
 人形だけは、今でも返してほしいけどね。
 ま、買ったけど。
この部分で「そんな事件の問題じゃない」というところが分かりにくいかもしれない。鬼束ちひろはたぶんこの事件を、100%彼に原因があるというような見方で見ていない。当然、法治国家における刑法にてらせば、傷害事件の犯人は彼だということになるし、そのことは鬼束ちひろも分かっている。ただ、そこから一つ違うレベルに上って考えると、両手をぱちんと叩いて音が出たのはどっちの手だ、という質問がナンセンスだというのと同じ次元で考えるべき問題だ。鬼束ちひろの言いたいのは、たぶんそういうことだ。
剣と楓 - 鬼束ちひろ剣と楓 – 鬼束ちひろ
(つづく)