鬼束ちひろの外見の変化と、「ふつう」であることの「痛さ」

Twitter(ツイッター)では鬼束ちひろのぶっ飛んだ変わりようが、もっぱら話題のようだ。多くは失望の声だが、いったい皆さんは30歳のシンガー・ソングライターに何を期待しているのか。
鬼束ちひろはデビュー以来ずっと、俗っぽく言えば「メンヘル」系にくくられるような、個性的な歌詞を書きつづけており、彼女自身が、東芝EMI時代の、たとえば「流星群」のPVに登場するような自分のイメージは、完全に作られたものだと告白している。
そしてその「作られたイメージ」に、少なくとも数年間は協力して音楽活動をつづけられる程度に、鬼束ちひろという人間は良識や社会性のある人間ということだ。
ただ、内面的には有り余る個性をもつ女性歌手が、30歳になってもまだ、20代の「作られたイメージ」の頃と同じ、そのへんのOLみたいなコンサバなファッションで人前に登場したとすれば、その方が明らかに「痛い」だろう。
それともエキセントリックな鬼束ちひろの外見を、ネタにしてよろこんでいる人たちは、今どき女性シンガー・ソングライターに、清純さや清楚さ、処女性のようなものを求めているのだろうか。
そういった、自分の女性性をあえて押し殺しているような、清純で清楚な30歳過ぎの女性ミュージシャンにしか、プラスの評価ができない人たちの、あまりに時代錯誤な女性観の方が、はるかに「痛い」。
「ふつう」であることが、いかに「痛い」かを、理解できない人たちが多いということだ。
あるいは、人間にとって30歳を過ぎるということが、肉体的、精神的にどういうことなのか、まだ若すぎて実感できないのかもしれない。
鬼束ちひろは、最新アルバム『剣と楓』を聴くかぎり、かなりロックな方向へ作風の舵を切っているものの、『インソムニア』の頃と基本的に変わらないスタイルも維持している。

ソングライターとしては、幅が拡がっているだけで、スタイルがせまくなったわけではない。
演歌歌手風の新譜『剣と楓』のジャケットにしても、タトゥーにしても、鬼束ちひろは自分自身をすでにネタにしていることに自覚的である。
鬼束ちひろは、自分の変化に無自覚なまま、頭がおかしくなって暴走しているという見方しかできない人たちは、21歳にして「システムとしての孤独」を理解していた彼女の頭のよさに、まったくついていけていないだけ。
まあ、ベルサーチのボディコン姿の鬼束ちひろに、嫌悪感しか抱けないなら、秋元康のプロデュースするアイドル・ユニットでも応援していればいいと思う。
剣と楓 - 鬼束ちひろ剣と楓 – 鬼束ちひろ