「あまりに日本的」な危機対処法と、上杉隆氏の批判の限界

上杉隆氏のインタビューが、『Time Out Tokyo』という雑誌のウェブサイトに掲載されていた。
『上杉隆 緊急インタビュー:根拠なき安全神話にすがるのは「砂の中に頭を入れるダチョウ」と同じ』(タイムアウト東京 2011/03/29)
あえて、上杉隆氏の考え方に反対してみたい。あくまで「あえて」する反対だ。
上杉隆氏の考え方に確実に間違っている点が一つある。それは「日本人はみんな『真実』を知らされた上で、どう行動するか自分で判断したがっている」という点だ。
僕が考えるに、未曾有の大地震を経験した直後のふつうの日本人は、むき出しの「真実」(真実の定義は別として)や、「最悪の可能性」ではなく、一時のなぐさめであっても「安心」できる知らせを聞きたがっている。
僕の考えの前提となっているのは、個々の日本人に情報を与えることと、集団としての日本人に情報を与えることは、根本的に異なるという観点だ。
(*その証拠に、一個人として上杉隆氏の書いたものを読んだ人は、家族・職場・学校でそれを広めるべきかどうか、おそらく悩むはずだ)
その上で、集団としての日本人に情報を与えるときは、むき出しの「真実」や「最悪の可能性」を伝えるより、まずはウソでも感情的な「安心」を与え、「真実」や「最悪の可能性」は小出しにしていく。
その方が、結果、引き起こされるパニックや混乱より、リスクが低くなるという考え方は成り立たないだろうか。
例えば、集団としての日本人に、福島県の放射線レベルが平常時より高い「真実」や、農畜産物・水道水汚染の「可能性」を伝えた結果、なにが起こったか。
福島から避難してきた被災者への差別や、農畜産物のいきすぎた返品、ミネラルウォーターの買い占めなど、パニックの最初の部分がすでに始まってしまった。
これら、いわれのない差別や風評被害など、日本的な集団心理や、同調圧力(=みんな同じでなければいけないという考え方)がもたらす悪い結果を、できるだけ小さくするには、あえて大ウソの「大本営発表」でまず「安心」させる。
こういった、「ウソも方便」的なやり方もあるのではないか。
ふつうの日本人が、個人主義・自己責任にしたがって行動し、メディアの情報を冷静にうけとめ、たとえむき出しの「真実」や「最悪の可能性」を伝えられても、合理的に行動できるなら、上杉隆氏の主張はまったく正しい。
しかし、ふつうの日本人は、「お上」の「大本営発表」を信じて行動することに慣れてしまっている。慣れすぎてしまって、何が大ウソなのか、自分で判断する能力もなくしている。
(*そもそも上杉隆氏の政府・東電批判に嬉々として飛びつくのも、きわめて日本人的反応だ)
しかも、かつてない震災の後で、ただでさえ冷静さを失っているふつうの日本人は、ぼんやりした不安のせいで、輪をかけて感情的な言葉に動かされやすくなっている。
ふつうの日本人が、もともと「お上」の発表など信用せず、あてになるのは自分だけ、自分の身を守れるのは自分だけという考え方なら、上杉隆氏が政府や東京電力のウソをどんどん暴けば、その分だけ合理的で冷静な行動を期待できる。
だが、ふつうの日本人が子供のころからたたき込まれるのは、みんなと仲良くすることや、和を乱さないことだ。「お上」の言うことはあてにならないと、身近な人にはグチを言いつつも、結局は「お上」に決定的に反抗せず、黙々としたがう。
したがった結果、自分が不利益をうけても、行政訴訟などで自分の生活に波風を立てるより、グチを言いつつも、いつもの生活にもどることの方を選ぶ。
そういう大多数のふつうの日本人に、上杉隆氏のような人物がむき出しの「真実」や「最悪の可能性」を暴いて伝えることが、はたしてより良い結果につながるだろうか。
冒頭の記事によれば、枝野長官が「日本の評価と世界の評価は違います」と言ったのに対して、上杉隆氏は「そんなはずはないでしょう、原子力で(苦笑)」と答えたらしい。
たしかに科学としての原子力には、日本も世界もない。だが、避難区域の情報の出し方について、ほんとうに日本も世界もないと言えるだろうか。
同調圧力の強い日本人の集団を前にして、「各自が自分で判断するのを期待して、万人に平等に真実をつたえる」といった欧米式の危機対処法は、少なくとも日本ではベストとは言えないのではないか。
むしろ、「各自の自己判断は期待できないので、一部の人々が犠牲になるのは目をつぶり、あえてウソを伝えて最悪の混乱をふせぎ、結果、より多くの人命が救えればいい」といった対処法が、ベストとは言えないまでも、まだましなのではないか。
今回のような危機が起こった後に、政府や東京電力の無責任なウソを指摘するのは、ある意味かんたんだ。上に書いたような欧米的対処法と日本的対処法の違いが、はっきり現れてツッコミやすいからだ。
ふつうの日本人が、「真実」や「最悪の可能性」の情報をあたえられても冷静に行動するように学習させたいなら、それはむしろ「平時」にやるべきことで、まさに危機が起こっている今やるべきことではない。
上杉隆氏の行動が、今「嫌われている」とすれば、危機に対して日本人がおきまりの反応をしている中で、上杉隆氏の警鐘が「それ、いま言うことか!」とツッコミたくなる、あまりに遅すぎる警鐘だからかもしれない。
(*ほんとうは上杉隆氏は「平時」から一貫して警鐘を鳴らしており、決して遅すぎないのだが)
上杉隆氏の根本的な批判は、このつぎ同じような大災害が起こったときこそ生かされるに違いない。ただ、その頃までには上杉なにがしという人物は忘れられており、今回のように「再発見」されるだろう。