今回の福島原発の事故は反原発運動の「副作用」?

福島第一原子力発電所の事故について、ツイッターで議論をしていて、新たな発見があった。
原子力発電は過渡的な発電方法にすぎない、という考え方だ。
僕はこの考え方を、「これから新たな発電方法を導入することを想定した上で、原発はそもそも少しずつ減らしていくはずのものだ」と理解した。
そんな考え方が世の中に存在するなんて、まったく知らなかった。
今まで見てきた政府広報や電力会社のCMに、「原発をだんだん減らして、代わりに別の発電方法を増やします」と明言したものはなかったからだ。
今の電力需要を支えるためには原発が必要なんです、ごめんなさい。
少なくとも僕にとっては、どの政府広報も電力会社のCMも、こう言っているようにしか聞こえなかったのだ。僕の理解がおかしいのだろうか。
もし政府や電力会社が、本当にもともと原発をフェイドアウトさせる計画だったとしたら、広報が完全に失敗している。すぐに改めるべきだ。
例えば、原発の部分が、現状の3割からだんだん減っていくようなアニメーションの円グラフを使うとか。
さて、原発について、もう一つ新たな発見があった。それは、「反原発運動の副作用」という問題だ。
つまり、強硬な反原発運動が、かえって日本に現存する原発を危険なものにしているかもしれない、という可能性のことである。
今回の福島第一原発は、今月、2011/03/26が設計寿命だったらしい。
この事実を取り上げて、原発反対派は当然のごとく、「東京電力がまだ使えるとウソを言って、だましだまし運転しつづけてきた」と東京電力を非難する。
ただ、本当に設計寿命どおりに福島原発を廃炉にし、かつ、東京電力管内の電力供給を維持する必要があるとすれば、別の場所に、最新の設計の原子力発電所を新たに建設しなければならない。
「福島原発を廃炉にして、同じ場所に新しい設計の原発が完成するまで、電力供給が減りますので、東京電力管内のみなさん、節電にご協力ください」とあやまって、誰も文句を言わないなら、とっくに東京電力はそうしていただろう。
電力の安定供給が至上命題(と思われている)電力会社に、そんな釈明が許されるはずがない。
なので、福島原発を廃炉にするなら、自動的に、別の場所に最新の設計の原発を作ることになる。
しかし、今回の事故がなかったとしても、日本全国津々浦々、原発誘致に積極的な自治体など、まず存在しない。白眼視されることを恐れず、巨額の補助金を国からぶんどる覚悟でもない限り。
原発アレルギーはそれだけ日本中に浸透していて、ある意味、長年にわたる反原発派の活動が効果をあげていることの、何よりの証拠だ。
すると、電力会社としては、設計寿命を迎える原発をだましだまし使うしか選択肢がなくなる。
その「だましだまし」のレベルについても、本来、大規模な改善をしたくても、例えば現状の敷地から一歩たりとも拡張させないという、強硬な反原発運動が存在すれば、改善の余地は限られる。
既存の設備を根本的に改善することもできない、最新の設計の原発を別の場所につくることもできない。
それでいて、いざ事故が起こると、「古い原発を安全だと偽って運転してきた」と非難される。
僕はいま、意図的に、東京電力側の立場でものを書いている。しかしながら、地元民を巻きこんだ強硬な反原発運動に、ほんとうに「副作用」が全くなかったと言えるだろうか。
東京電力が仮に「原発の改善も新設もできないのでは、安全確保なんてできません」という見解を持っていると想定して、これに対する合理性のある住民側の反論は2つだけだ。
(1)「そもそも原発建設に同意していない」
(2)「不十分な情報にもとづいて原発建設に同意させられた」
まず(2)については、何を持って「十分」な情報提供とするかは、本質的に定義できない、という問題点がある。
原発を建設する側がいくら大量の情報を提供し、時間をかけて説明しても、情報を受けとる側が「不十分」だと言い続ければ、同意は永久に成立しない。そもそも「完全な情報」なるものは、世の中に実在しない。
「完全な情報」などということを言い出すと、あらゆる政策決定の過程に「終わり」がなくなってしまう。
情報が「不十分」であっても、どこかの時点で市民の側も国の側も、意思決定しなければ、何も決まらないし何も始まらない。
ただし、市民の側が強行的に政策決定の過程を「終わり」にさせる方法がある。それは「何があっても同意しない」という方法だ。成田空港の例のように。
ところが、福島県には事実として原発が建設されている。
原発がじっさいに建設されているからには、住民側は(1)の反論、つまり「そもそも同意していない」という反論は使えない。
もちろん住民は一枚岩ではないので、「あの人たちは同意したが、私たちは同意していない」と形式的に反論することはできる。ただ、反原発派が原発推進派を、あらゆる手段を使ってでも説得できなかったという事実は残る。
僕は原発の地元の人たちに対して、あまりに残酷すぎる議論をしているだろうか。
福島原発の事故が起こった今、昔からの自分たちの主張に忠実で、変節しない反原発派の人たちは、当然、「日本全国の原発をすぐに停止せよ」と主張すべきだ。
その代わり、その主張が実現された後、(A)化石燃料による発電の割合が必然的に増えて、温暖化ガス排出を減らす国際世論から日本が孤立すること、または、(B)日本全体の経済活動が3割程度縮小することによる貧困層の拡大、このどちらかを受け入れなければならない。
そして原発推進派の人たちは、「日本全国の原発を廃炉にして別の場所に最新の設計の原子炉をつくり直せ」「既存の原発におしみなく改善費用をかけろ」など、複数の主張をすることができる。
その代わり、反原発派や、素朴に原発が嫌いな一般市民との決定的な対立を想定し、彼らを説得する労力を甘受しなければならない。
「バカな国民は切り捨てておけ」と、かんたんに原発問題を片付けられる立場には、残念ながら誰も立つことはできない。日本は独裁国家ではないので。
僕の個人的な予測としては、強硬な反原発派も、マイルドな反原発派も、素朴に原発が嫌いな一般市民も、科学的に原発を考える人たちも、利権をねらって原発を誘致したい人も、どの立場の人たちも残り続けるだろう。日本は言論の自由が保証されているので。
結局のところ、立場の異なる人たちの、有限な時間の対話の中からしか、一つの「決定」は生まれない。それが現実というものだ。
「科学的で合理的な意見が最終的には必ず他の人たちを説得できる」というのは、純然たる理想論にすぎない。
と、いうふうに考える僕は、悲観的すぎるだろうか。