そうだ、京都を出よう~あいまいな京都のあいまいなえん罪~

そうだ、京都を出よう。
日本国憲法で規定されている「思想・良心の自由」は、とうとう京都府からなくなってしまうらしい。
『京都府:日本一厳しい児童ポルノ規制へ 「規制」と「冤罪」巡り議論』(毎日新聞 2011/02/23)
京都府では条例によって、児童ポルノの単純所持が処罰の対象になるようだ。単純所持とは、誰かに提供したり、販売したりする目的ではない所持のことである。
児童ポルノがけしからんものというのはいいとして、果たして、児童ポルノの単純所持者をどうやって突きとめて、どうやって証拠をあげて、どうやって逮捕するのかを、よくよく考えてみよう。
同じように単純所持が刑法で罰せられるものに、例えば覚せい剤がある。
まず覚せい剤は、小麦粉との違いが化学的に分析できる。何が覚せい剤で、何が覚せい剤でないかを、客観的に立証できる。
しかし、児童ポルノについては、それほど事はかんたんではない。残念ながら、ある表現物が児童ポルノであることを、覚せい剤と小麦粉の違いのように、客観的に立証することは難しい。
極端な例を取り上げて、「これは明らかに児童ポルノだ」と言うことはできるだろうけれど、どうしてもグレーゾーンが残ってしまう。
ある人間を逮捕・起訴するかどうかという、その人間の一生を左右する問題なのだから、いい加減に児童ポルノかどうかの判断をするわけにはいかない。
ところで、京都府がもし児童ポルノの単純所持を処罰する条例を作ったら、いったい誰が押収物が児童ポルノかどうかを判断するのだろうか。
そして、その判断が「客観的だ」ということを、どうやって担保するのだろうか。
僕にはすべての場合において、目の前にある表現物が「児童ポルノ」に当たるかどうかを、「客観的に」判断する自信はない。
次に、百歩ゆずって「児童ポルノ」を、誰が判断しても結果が同じになるように、客観的に定義できたとして、誰かさんが「児童ポルノ」を隠し持っているという事実を、警察はどうやって知るのだろうか。
覚せい剤なら、警察はたぶん売人の口を割らせたり、あやしそうな人間を街頭で職務質問するなどして、所持者を見つけるだろう。
では「児童ポルノ」の場合はどうか。
警察が街頭で適当な人間をつかまえて、「あなた児童ポルノを持っているやつを知りませんか」と質問するのだろうか。まさか、そんなことはないだろう。
別の犯罪の容疑者の家宅捜索をしたら、たまたま「児童ポルノ」が出てきて別件逮捕ということはありうる。
書店などで「児童ポルノ」を購入した客を、店の外で張り込んで逮捕というパターンはありえない。言うまでもなく、「児童ポルノ」を販売している書店自体がまず摘発されるからだ。
「児童ポルノ」を販売していると分かっていて、購入者が現れるまで放置するのは、一種の「おとり捜査」だが、どうやら日本ではおとり捜査一般を許容する法的な規定はないようだ。
ますます、警察がどうやって「児童ポルノ」の所持者を見つけ出すのか分からなくなってくる。
可能性があるとすれば、所持者自身がホームページなどで自らしっぽを出してしまうパターン、そして、「あの人、児童ポルノを持っているっぽいんですけど」という第三者による警察への通報の二つぐらいだろう。
しかし、考えればすぐ分かるように、この2パターンは悪用される危険性が高い。要は「ハメられる」おそれがある。
仮に誰かにハメられて逮捕されたとして、自分が児童ポルノを掲載しているホームページの製作者では「ない」ことを、どうやって証明したらいいだろうか。
あるいは、第三者の通報で逮捕され、取り調べを受けるはめになった場合、もし自宅にある自分の持ち物に「児童ポルノ」をこっそり入れられて、家宅捜索でそれが見つかったら、どうやってそれが自分の意思ではないことを証明したらいいだろうか。
覚せい剤なら、覚せい剤以外の物的証拠がないことや尿検査などで、客観的に自分の無罪を証明できる希望がある。
しかし、自分が「児童ポルノ」を所持するような嗜好・性癖がないことを、どうやって客観的に証明できるだろうか。
「児童ポルノ」の単純所持で逮捕され、取り調べを受けることになり、それがえん罪だとしたら、自分が犯人ではないことを証明するのは、たぶん痴漢のえん罪事件よりもはるかに難しい。というより、ほぼ不可能だろう。
痴漢なら、同じ車両に居合わせた人の目撃証言が出てくるかもしれない。物理的に痴漢が無理な姿勢だったことを説明できるかもしれない。
しかし、自宅でこっそり見るものであるはずの「児童ポルノ」を、自分の意志で手に入れたのではない、ということを、一体どうやって反論すればいいのか。
いや、実は京都府の条例が処罰しようとしているのは、「児童ポルノ」の入手ではなく単純所持である。
なので、自分の意志で手に入れたのではないことを証明したところで、単純所持していた事実には変りはない。
たとえ家宅捜索の結果、自宅で見つかった「児童ポルノ」に、自分自身が何の覚えもなくても、単純所持していたのは事実なのだから、その部分の処罰は受けざるをえないのだ。
京都府の条例を考えている識者たちも、さすがにこれはまずいということは分かっている。
なので、えん罪を防ぐため、処罰する前に、京都府が廃棄命令を出すことができ、それでも捨てない場合に、制裁を科すことができるとしている。
ただ、これがえん罪の防止になるかどうかも極めてあやしい。あなたの自宅に「児童ポルノ」を忍び込ませた人物が、同じ方法で何度もくり返しあなたの自宅に「児童ポルノ」を置いたらどうなるだろうか。
あるいは、別の人物を使って、適当な時期を見計らって、再度、警察にたれ込んだらどうだろうか。
廃棄命令に従わなかったとして、あなたは前科者になる可能性が高い。
こうした面倒なことが起こるのは、以下の2つの理由による。
(1)「児童ポルノ」とそうでないものの区別を客観的に証明できないこと。
(2)「児童ポルノ」の「所持」主体と「使用」主体が同一であることを客観的に証明できないこと。
最初の(1)についてはすでに説明した。(2)はどうだろうか。
覚せい剤などの麻薬であれば、最終的に麻薬を「使用」した当事者を尿検査などで特定できるからこそ、その流通経路にある人間も処罰する根拠がある。
ところが、「児童ポルノ」の「使用」とは何だろうか。
「児童ポルノ」を見ただけで「使用」になるというのはナンセンスだろう。
では、下品な話で申し訳ないが、「児童ポルノ」を見せてナニがナニするのを確認できれば「使用」したことになるのか。それともナニからナニが出てくるまで確認して「使用」したことにするのか。
もう少し化学的に、脳に電極を貼り付けて、「児童ポルノ」を見せて特定の部位に微電流が流れたら「使用」したと見なすのか。
このように考えてみると、「児童ポルノ」を「所持」していた当事者が、それを「使用」する目的で主体的に入手したと証明するのは、ほぼ不可能だと分かる。
つまり、「児童ポルノ」の単純所持で逮捕されたとき、また、廃棄命令にしたがって自分で廃棄したつもりが、何らかの「陰謀」で所持している状態にされてしまったとき、「この児童ポルノは私が主体的に入手したものではない」と反論することは、どうやっても不可能なのだ。
「いや、所持しているからには、どこかから購入したはずだから、販売業者を調べればある程度わかるだろう」という反論も役に立たない。
自分自身で製作した「児童ポルノ」を、自分で所持する場合もありうるからだ。例えば、ある種の麻薬を一般の商品から合成する知識がある人間と同じように。
市販されていないから「児童ポルノ」ではない、ということにはならない。
京都府が「児童ポルノ」をどう定義するのか分からないが、自主制作(?)したビデオやマンガも該当するなら、それらを知らない間に所持させられたが最後、「これは自分の意思で入手したものではない」と取調官に言っても、おそらくはムダだ。
どうやら、「児童ポルノ」のえん罪は痴漢のえん罪よりも、えん罪であることを証明するのがはるかに難しくなりそうだ。
しかも「児童ポルノ」の単純所持であれ、痴漢であれ、受ける社会的制裁に大きな違いはないだろう。
上述のように、(1)客観的に定義できないもので、かつ(2)使用によって所持の主体性を証明できない、この二つの特性をもつ表現物を、単純所持だけで処罰するのは、憲法に定められた思想・良心の自由に違反しているおそれが極めて高い。
それでも「児童ポルノ」は単純所持を禁止して当然だろうと思われる方は、例えば「破壊行為を教唆する宗旨をもつ新興宗教の経典」や、「簡易爆弾の作り方マニュアル」、「失敗しない集団自殺法の解説動画」などに置き換えてもいい。
逆に言えば、「児童ポルノ」の単純所持を処罰するなら、単純所持を禁止すべき「危険な」表現物はまだ他にあるはずだ。ここにも、よく理由の分からない恣意性が見られる。
以上のような議論は単なる詭弁だとお考えの方は、ツイッター経由で筆者あてに、ご自身のブログのリンクなどをお送り頂ければと思う。
当然ながら、「児童ポルノ」について、100人いれば100人が同意でき、個人の価値観に依存しない、客観的な定義が最低限必要であることは言うまでもない。