あえてバイクのおじさんではなく、町山智浩さんを批判してみた

Twitter(ツイッター)で下記のトゥギャッターのリンクが転送されてきた。ざっと読んで、当然ながら映画評論家・町山智浩氏が圧倒的に優勢なので、あえて町山氏に反論してみたい。
「町山智浩さんとバイクのおじさんのサウジの人権をめぐる議論」(トゥギャッター 2011/01/29 07:13)
最初に書いておくと、この「バイクのおじさん」の町山氏に対する反論や反応が、お話にならない内容だということは言うまでもない。
ただ、町山氏のサウジ批判も、あえて単純化すれば「欧米は進んでいて、アラブ圏は遅れている」というかなり素朴な啓蒙主義なので、以下の3点で再検討してみたい。
(1)社会はさまざまなレベルの社会から成り立っている。
(2)社会は誰かが意図をもって作ったものである。
(3)社会はお互いに依存し合っている。
■社会はさまざまなレベルの社会から成り立っている
例えば、日本に住んでいる僕は複数の社会に属している。
家族、親戚、勤務先の会社、Twitter(ツイッター)や新浪微博(中国のマイクロブログ)のタイムライン、mixi(ミクシィ)のマイミクさんたちやコミュニティー、住んでいる地方自治体、日本という国家などなど。
その「勤務先の会社」という社会の中には、さらに、自分が所属している部署、自分が勤務している事業所、会社全体など、さまざまなレベルの社会がある。
学生さんなら、学校という社会に属していて、その中にクラス、所属している部活、仲良しのグループなど、いろんなレベルがある。
僕が言いたいのは、「社会=国家」という考え方を暗黙の前提にしてはいけないということだ。もちろん町山智浩氏はこんなことを前提にしていない。
日本は「国家」というレベルで見れば、確かに憲法で言論の自由が保障されているので、言いたいことが言える。書きたいことが書ける。
でも、勤務先の会社や、家族、ご近所、地域のコミュニティー、mixi(ミクシィ)のコミュニティーなど、個々の社会の内側では、憲法で保障されている言論の自由を完全に行使できるわけではない。
ある社会(例:勤務先の会社)の構成員であり続けるためには、別の社会(例:国家)で保障されていること(例:言論の自由)が部分的に制限されるのはやむを得ない。
東京都の青少年保護育成条例や、神奈川県の受動喫煙防止条例などを考えてみてもいい。公共の施設でタバコを吸う自由を行使したいなら、神奈川県から出たほうがいい。
他の例で言えば、非常に厳格なある種の宗教に帰依して生きて行きたい人は、もしかすると肉を食べる自由を奪われることを甘受する必要があるかもしれない。
このように、一人の人間が生きているのは、国家という社会の中だけではない。
その他のたくさんの社会の中で生きているのであって、それら複数の社会にはそれぞれの規則がある。
ときには、それら複数の社会どうしで矛盾した規則が存在するという、困った状況に置かれる場合もある。
■社会は誰かが意図をもって作ったものである
そして、それらたくさんの社会は自然に出来上がったものではない。誰かが特定の意図をもって時間をかけて作り上げて来たものだ。
国家という社会ももちろんそうである。
現在の日本という国家は、一応、欧州で特定の人物たちが考え出した近代法やら、民主主義やら、自由主義やらといった、特定の考え方に基づいて時間をかけて作り上げられてきた。
別の国家は、何千年という歴史をもつ宗教の経典に基づいて作り上げられているかもしれないし、別の国家は、特定の一人の人物の思想に基づいて作り上げられているかもしれない。
いずれにせよ、すべての国家は、誰かが意図をもって作り上げた人工物だ。
日本という国家の基礎になっている欧州起源の法哲学や政治哲学は、歴史上、特定の時期に、広い世界の中のフランスだったりイギリスだったりという、とても限定された地域で考え出されたものだ。
そして、それらの欧州起源の思想は、キリスト教とギリシア哲学という、特定の宗教や思想に基づいていたりする。
それと同じように、別の国家は、別の時代の、別の地域で生まれた、別の人々の考え出した、別の思想に基づいて作り上げられた人工物である。
2011年現在、世界中に存在する国家が、すべて欧州起源の思想の上に作り上げられた国家という点で同じだ、というのは、完全に間違った認識だ。
そして、このあたりにくると、もしかすると町山智浩氏はこの完全に認識を持っているのではないかと思うのだ。これが僕の誤解ならお許し頂きたい。
つまり、町山智浩氏は、以下のいずれかの根本的に誤った認識をお持ちなのではないかと危惧する。
(A)2011年現在、世界中に存在するすべての国家は、欧州起源の考え方に基づいて作り上げられた国家である。なのに、その基礎となる考え方に反した権力行使(不当な言論弾圧など)を行う、けしからん国家がある。
(B)2011年現在、世界中に存在するすべての国家は、本来は、欧州起源の考え方に基づいて作り上げられた国家であるべきである。なのに、そうなっていない国家がある。すべての国家が欧州起源の考え方に基づいて作り上げられれば、世界から少なくとも国家体制についての問題はなくなる。
なぜ僕がこのような危惧を、町山智浩氏に対して持つのか。
それは、町山智浩氏が、まるで欧州起源の考え方に基づいて作り上げられた国家が、無条件に「いちばんマシな」国家体制だと思い込んでいるかのように見えるからだ。
仮に町山智浩氏がこのように思い込んでいるとすると、いくつかまずいことがある。
まず、米国で生活しているらしい町山智浩氏が、欧州起源の考え方に基づいて作り上げられた国家のさまざまな属性、つまり、憲法による国家権力に対する命令などの法哲学が、世界中で最も優れたものであると「感じる」のは、当たり前である。
なぜなら、そういう社会の姿に慣れていて、そういう社会の中で町山智浩氏個人の生活が成り立っているからだ。
しかし、自分が生活している社会の価値観を、世界中で最も優れたものであるとか、もう少し控えめに、チャーチルのように、最悪だけれどこれより良いものはない、などと考えるのは、単なる循環論法だ。
僕には町山智浩氏が、「自由主義国家は優れている。なぜなら自由主義でない国家より優れているからだ」という循環論法を展開しているだけにしか見えないのだ。
自由主義国家に暮らしている僕らは、自由主義の外側にある価値基準を利用しないかぎり、自由主義ではない国家に対して、「良い」「悪い」の価値判断を下せないはずだ。
自由主義国家と全く別の価値判断のモノサシを持つ国家に対して、自由主義国家のモノサシをあてがって、「悪い!」と判断するのは、「自由主義は自由主義だから優れているのだ」という循環論法でしかない。
もちろん、この循環論法について、カント的な定言命法で「自由は絶対的に正しい!!」と言い切ることはできる。
しかしその場合は、そう言い切る前に、キリスト教の文脈にどっぷり漬かっているカント哲学が、無条件に世界中の国家に当てはまる真理だということを、主張しなければならない。
果たして町山智浩氏は、ご自身の循環論法を分かった上で、確信犯的に欧州起源の哲学を、全く別の価値判断のモノサシを持つアラブ圏に押し付けているのだろうか。
それとも、複数の社会には、それぞれ全く異なった価値判断の基準があるという事実を、うっかり忘れていらっしゃるのか。
■社会はお互いに依存し合っている
最後に、もしも町山智浩氏の念願がかなって、サウジの民衆が独裁的な政権から解放され、自由を獲得したとしよう。
少し話は脱線するが、そうするためにはサウジの民衆は取りあえずクーデターでも起こすしかないわけだが、独裁政権がむざむざと「無血開城」するなど考えられない。町山智浩氏も、そんなおめでたい空想はお持ちでないに違いない。
おそらくサウジの民衆が本当に自由を獲得しようと思えば、現政権に対抗できるだけの武力は必須だ。さて、その武力はいったい誰が提供するのだろうか。
仮にどこかの国家から都合よく圧倒的な武力を調達できたとしても、現政権を倒すためには無数の血が流れるだろう。
町山智浩氏は、たとえ数万人、数十万人のが戦死したとしても、サウジの独裁的な政権が倒れればそれで良いと言い切れるのだろうか。
そして町山智浩氏は、そこまでサウジの独裁的な政権を非難するのであれば、サウジの民衆と共に、自らの命を賭けて武装蜂起に参加すべきではないのか。
話をもとに戻す。
仮にサウジの独裁的な政権が倒れ、サウジの民衆が自由を獲得したとしよう。
その結果、サウジが米国や日本に似た、つまり資本の独占がなく(ところで米国に独占資本はないだろうか?)、貧富の格差が小さく(ところで米国の貧富の格差は小さいだろうか?)、同性愛者が差別されず(ところで米国の全ての州で同性愛者は差別されていないだろうか?)、宗教の自由もあるような社会になる、というのは、根拠のない楽観論である。
独裁的な政権がなくなり、民衆への抑圧がなくなりさえすれば、欧米諸国や日本のような自由主義国家に生まれ変わるという保証が、いったいどこにあるのか。
百歩ゆずって、サウジが欧米諸国や日本のような自由主義国家に生まれ変わったとしよう。
その結果、例えば、サウジの石油利権が自由主義経済のむき出しの市場原理にさらされ、その結果、例えば、原油価格が不安定になり、その結果、例えば、輸入原油に依存する日本の一部産業の業績に影響し…
…などなど、いわば「風が吹けば桶屋が儲かる」式に、町山智浩氏自身の映画評論家としての生活を脅かさない保証はいったいどこにあるのだろうか。
もっと言えば、世界中の全ての国家が、欧米諸国や日本のような自由主義国家になりさえすれば、歴史上「もっともマシな」世界平和が実現されるという保証は、いったいどこにあるのか。
じっさいには、逆の可能性もあるのではないか。
つまり、サウジの独裁的な政権がサウジの民衆を抑圧している「おかげで」、僕ら日米安保同盟に守られている日本人は、今の自由な国家という恵まれた環境を享受できている可能性はないだろうか。
このように、複数の社会はお互いに依存しあっている。
そのうち一か所を押せば、必ずそれが他の社会に影響する。そしてその影響は、その別の社会の価値基準にとって必ずしも「良い」結果になるとは限らない。
町山智浩氏はこのことを理解なさっているのか、一連のツイッターでの発言を読んで強く疑問に感じた。
以上、かなり長文になってしまったが、町山智浩氏と「バイクのおじさん」の一連のやりとりを受けて、町山智浩氏を擁護するツイッター利用者が、「バイクのおじさん」をよってたかって糾弾しているように、僕には見える。
これは、日本における、国家よりも小さい社会(職場や学校)でよく見られる、「村八分」とか「いじめ」といったものによく似ている。
きっと「バイクのおじさん」は、こんな日本の社会は、ジェッダよりもくつろげないなぁ~と感じているに違いない。
そして町山智浩氏は、不覚にもそうした日本の小さい社会によく見られる、「村八分」「いじめ」的なものの引き金をひいてしまったことを、を自覚されているだろうか。
つまり、サウジの独裁的政権を糾弾する論争の中で、日本社会の特定の側面を、自ら強化するような行為をしてしまったことを、自覚されているだろうか…。