人間の命よりヒグマの命が大事と言う人間のエゴ

北海道斜里町で、人間に危害を及ぼす危険性のあった親子ヒグマ2頭を、地元の猟友会の方が射殺した件で、斜里町役場に苦情を寄せている人がいるらしい。
『「クマを殺さないで!」批判殺到 猟友会「現実分かっているか」と反発』(J-CASTニュース 2010/10/29記事)
「クマはかわいいから」などという理由は論外だが、彼らの苦情を正当化するには、「一匹でも多くの野生動物の命を守るためには、多少の人間は犠牲になっても仕方ない」という考え方を正当化する必要がある。
究極の思考実験として、次のようなケースを考えられるだろう。
世界で最後の一匹とされる野生動物が、一人の人間に襲いかかって殺そうとしている。野生動物と人間のどちらを助けるべきか?
人間が一人くらい減ったところで、地球の生態系への影響はごくわずかだが、その野生動物を殺してしまうと、地球上からその種が絶滅し、生態系への影響は予測できない。
生態系の破壊によって、その人間一人だけでなく、より多くの人間が将来的には生存できなくなる危険性がある。
ならばより多くの人間の生存を守るために、目の前で殺されかけている人間を見殺しにするべきだろうか。
北海道の生態系を守るためなら、斜里町の住民が5、6人、ヒグマに襲われて重症を負っても構わないだろうか。
生態系を守ろう、環境を守ろうというのは、このままでは将来の世代の人類が生きられなくなるという、人類の危機感から来ている考え方だ。
仮に人類が絶滅しても構わないという考えに立てば、そもそも生態系や環境を守る必要がなくなる。人類も他の生物とともに絶滅すれば、その時点で、「生物の多様性が失われる」とか、「環境を保護しなければ」といったことを考える生物も地球上からいなくなるわけだから。
先日ここに書いた、食習慣という文化多様性か?生物多様性か?という問題にしても、決してこの2つの問題が、こちらを立てればあちらが立たずの二者択一の問題ではないけれども、生物多様性を保護する取り組みのせいで、生計を立てられなくなる人が出てきたらどうするのか、という問題は残る。
ある絶滅の危機にある生物種があったとして、その生物を捕獲し、売らなければ、生活していけない家族がいたとする。彼らの生活を保証する義務を負うのはいったい誰だろうか。
異なる部族どうしの内紛で、何千人という人間が死んでいる発展途上国があったとして、その国に棲息する絶滅の危機にある生物種の保護よりも、部族どうしの内紛が起こらないような政治体制を樹立する支援の方が、遥かに優先順位が高いのではないか。
つまり、生態系の保護にかける金があるなら、人間に最低限の生活を保証したり、教育制度を整備したりすることに金をかけるのが、明らかに優先されるべきではないか。
まして地元住民の貧しさのために、稀少種を捕獲し、売却することが安定収入への近道になっているとすれば、生態系の保護よりも、住民の生活を保証する方が先ではないか。
...などなど、生態系の保護や環境保護をかんたんに叫べるのは、いわば先進諸国で比較的安定した生活ができる、ごく一部の人類の「特権」とも言える。
まして、「生態系の保護のために、斜里町の住民の命よりも、ヒグマの命を優先させるべきだ」などという苦情は、野生動物の危険とは無縁な場所にのうのうと暮らしている人間の「特権」であることに間違いはない。
もっと言えば、絶滅の危機にありもしない生物を、食用にしている人間がいるからといって、その生物を飼育・販売することで生計を立てている人間の生活を無視して、その生物を食べるなと叫ぶのは、自分の手を汚さずに牛肉や豚肉を食べている人間の、単なる「偽善」でしかないことは言うまでもない。
僕の書いていることは、何かおかしいだろうか。