何が「病気」で何が「健康」かは社会の要求水準による

ふと思ったのだが、上野玲氏の「うつは薬では治らない」という主張には、2つの政治的文脈がありそうだ。
一つは、社会的権威である医師が病名をつけることで、逆に、患者が差別されるおそれがあるという考え方。
もう一つは、薄毛や禁煙まで健康保険を適用して医者が治療する流れに対して、単なる金儲け主義じゃないかと非難する考え方。
まず前者の考え方は、国家の権威による管理・支配からの弱者の解放という、いかにも左翼的な図式だ。個人的に大学生の頃かじったフランス哲学で言えば、J・P・サルトルやミシェル・フーコーなどをイデオロギー的に解釈した考え方。
例えば、ハンセン病患者が長らく隔離政策によってうけてきた差別などと同様、精神病患者を精神病と診断し、病院に隔離すること自体が差別であり、そうした権威による精神病患者の支配から、患者の主体性と自由を回復しなければならない、という考え方である。
たぶん、上野玲氏が執拗にうつ病患者の主体性にこだわるのは、うつ病患者は医師による管理という美名の下に実は差別されていて、うつ病患者の主体性と自由を奪還しなければならないという、やや時代錯誤な左翼的動機が背後にあるのではないか。
このような左翼的な考え方が、僕らの生きている現代社会では、もはや通用しないことは言うまでもない。
なぜなら、患者の主体性や自由をうんぬんする以前に、そもそも日本の近代社会が、西欧のように個人の主体性や自由を基礎に作り上げられたものではないからだ。
逆に、日本社会は、被差別者が権威に頼ることで解放されるという筋書きが、良くも悪くも成立してしまう社会だと言える。
そのために、一貫して維持されてきたのが天皇制で、占領軍もこの究極の権威を利用しなければ、戦後日本の占領政策が成り立たないことを知っていた。
なので、日本のうつ病患者が社会的な偏見から解放されるには、残念ながら医師による診断という権威に頼る方法がもっとも有効であり、社会的な説得力を持つことに違いはない。
こうした日本社会の権威主義体質を変えようというのは、最終的には天皇制の廃止に行き着く議論であり、無謀な試みだ。
上野玲氏のうつ病に対する極端な考え方が、やや滑稽に見えるのは、時代錯誤の左翼的「革命」観を思わせるからだろう。
さて、もう一つの政治的文脈は、医者の金儲け主義批判である。
肩こりや薄毛は市販薬で対応するのが当たり前で、「病気」などではないというのが今までの常識だった。
ところが、薄毛については、テレビCMなどで数年前から大々的に「お医者さんに相談だ!」と、「病気」と見なして医師にかかろうというキャンペーンが展開されている。
禁煙も自助努力でやるのが当たり前だったが、今やニコチン中毒という「病気」と見なして医者にかかろう、ということになりつつある。
これらは日本医師会が親切心でやっているわけではなく、市場規模が大きくて「おいしい商売」なので、新たな収入源にすべく展開しているキャンペーンだろう。
さて、禁煙や薄毛と同じ理屈が、うつ病にも適用できるだろうか。
医師が金儲けのために、うつ病の概念を恣意的に拡大して「新型うつ」などというものをでっち上げたのだ、と主張することに、意味はあるだろうか。
この問題は、そもそも「病気とは何か?」という問いに行きつく。
時代とともに、何が病気で何が病気でないかは変わっていく。今まで病気とされなかった状態が病気とされる場合もあれば、病気とされていた状態が病気ではなかったとされる場合もある。
さらに生活の質(quality of life)の向上も、医療が担うべき仕事の一つだという考え方まで出て来ている。
一つ言えるのは、病気そのものを単独で定義することはできない、ということだ。ある社会で何が病気であるかは、その社会が要求する「健康」の水準によって決まる。
例えばソマリアで「新型うつ」や喫煙の害の啓蒙活動をするのは、ほぼ無意味だし、優先順位が違うだろう。
現代の日本社会が「新型うつ」を病気と見なし、治療することを要求しているという大きな文脈がれっきとして存在する。
この社会的文脈を無視して、問題を個人のレベルに引きずり下ろし、「新型うつは病気ではなく個人の甘えだ」とか「うつ病の患者は治療を薬だけに頼るべきでない」などと主張したところで、社会的に意味のある発言にならないのである。