日本人がネット上で匿名性を求める本当の理由

ミクシィ(mixi)やツイッター(Twitter)などのソーシャル・ネットワークを使う日本人が、ほとんど匿名であることを非難する意見をよく目にする。
勝間和代の『つながる力』も、Twitter(ツイッター)があたかも匿名による情報発信を自然に排除するものであるかのように書くことで、暗に匿名によるインターネット上での情報発信を非難していた。
米国発のTwitter(ツイッター)が日本で利用者数を伸ばしながら、同じ米国発のFacebook(フェイスブック)が全く普及しないのは、Twitterは匿名アカウントで登録しやすく、Facebookが匿名アカウントの登録がしづらいことが最大の要因だろう。
なぜ日本人がネット上の情報発信で、そこまで匿名にこだわるのか。
自分の発言に責任をとらない無責任さが原因だとか、日本の集団主義の中で「個」が未発達であることが原因だとか、勝間和代に代表されるそういった考え方は、ちょっと違うのではないか。
アングロサクソン的価値観から見れば、確かにそう見えるだろうが、アングロサクソン的個人主義・自由主義を楯にとって、日本人の没個性や集団主義を非難するのは、あまりに安易すぎる。
というより、そんな批判は一種の思考停止であって、アングロサクソン的価値観に触れたことがある人間なら、誰にだって言える極めて陳腐な議論だ。
僕が考えるに、日本人のネット上の情報発信のほとんどが匿名になるのは、日本のリアルな社会における責任感が強すぎることの現れだ。
平たく言えば、せめてネット上では自分の思うままに意見を言いたいけれど、リアルな社会で、会社や家族、学校に迷惑はかけたくない。だからネット上で自分の言いたいことを言おうとすると、どうしても匿名になってしまう。
日本人は好き好んで、自分の属する組織や親族の一部と見られたいわけではない。
なのに、何か社会的に目立った行動をとると、ごく少数の著名人を除いて、「XXXX株式会社の誰々」だとか、「XXXX大学(高校・中学等)の誰々」、女性の場合には、「誰々の妻」「誰々の母親」などなど、必ず所属する組織や親族の一成員としてマスメディアに報道されてしまう。
そしてその結果、所属する組織や親族から非難を浴び、そこから排除されたり、言論の自由に対する規制を受けたりしてしまう。
何らかの組織や親族に属している日本人は、常にそれら組織や親族からの同調圧力(=目立った行動をしてはいけないという無言の圧力)にされされている。
だからこそ、個人として自由にモノが言えるインターネットのような媒体が登場したとき、誰にも気兼ねなく自由に個人の意見を発言するには、匿名にせざるを得ないのだ。
ただし、匿名と行っても、2ちゃんねるのような本当の「名無し」ではなく、いわゆるハンドルネームで、ネット上では人格を特定できるような方法で情報発信する傾向にある。
特にTwitter(ツイッター)やミクシィ、携帯電話向けのソーシャル・ネットワークなどで、アバターとセットになった個性的なユーザ名で、ネット上の人格を特定する方法は、日本のネット利用者にとってはおなじみの方式だ。
こうしたネット上での日本人の行動パターンを、アングロサクソン的価値観から一方的に断罪し、「個人として無責任だ」「集団主義に個が埋没している」などと非難する議論に何の意味もないのは、以上のことから明らかだろう。
むしろ日本人は、インターネット上で、帰属集団の同調圧力を避けて個人の言論の自由を確保するために、リアルな世界とは別の「名前」を使わざるを得ないのだ。
犯罪などの目的で、本当の「名無し」という意味で匿名でネット上で発言している日本人は少数派だろう。
特に、なぜ日本人はFacebookを使わずミクシィ(mixi)を圧倒的に好むのかをよく考えてみるべきだ。ミクシィ(mixi)に参加すると、否応なしに連番を付与されて、たとえハンドルネームを変更しても、個人として特定される。
それでも何百万人という日本人がミクシィ(mixi)を使い続けているのだから、日本人はソーシャル・ネットワーク上で自分を特定されることを嫌がっているわけではない。
むしろ自分を特定して欲しい、一つの個性として認めて欲しいと思っているのだ。ただし、リアルな世界の帰属集団に迷惑をかけたくないので、リアルな世界の現実の氏名とは全く無関係な「固有名詞」で、一つの個性として認めて欲しいのだ。
このことをふまえると、日本でネットの匿名性を非難する人々は、二種類に分けることができる。
一つは、アングロサクソン的価値観に立って非難する人々。彼らは日本社会における組織の同調圧力と、そこから本当は逃げたがっている日本人、という現実を、完全に見逃している。
もう一つは、ネット上にまで日本的同調圧力を持ち込み、主に治安を保つために相互監視社会を実現したいと思っている人々。
前者は、おそらくリバタリアニズムを暗黙の基礎とし、個人の全面的な自由と責任を前提した上で、リアルな社会とネット上の双方で、自由な個人によって形成される自由な社会を実現したいという理念を持っている人々だ。
ただ、このような価値観は、日本のリアルな社会にもネット社会にも、そのまま当てはめるのは明らかに無理がある、あまりにアングロサクソン的な価値観である。
後者は、日本社会の同調圧力が、日本社会の安全性を担保しているという考えを前提として、ネット社会でも個人の自由を制限したいという理念を持っている人々だ。
日本のネット利用者のほとんどが「個人を特定できる匿名性」(ハンドルネームやアバター)を好むのは、同調圧力の強いリアルな社会に適応しつつも、ネット上では個人の自由をできる限り享受したいという、ギリギリの欲求から来ている。
日本でネット上の匿名性を非難すると、上述の二種類の論者がいつの間にか共同戦線を張ってしまうという、非常に奇妙なことになってしまうおそれがある。
つまり、個人の自由を最大限に発揮させたいという人々と、相互監視社会を強化したいという人々が手を結ぶ結果として、現在ネット上で辛うじて実現されている、日本人ネット利用者の言論の自由さえ、同調圧力で抹殺しかねない。
だから勝間和代のような素朴なアングロサクソン的価値観信奉にもとづく、ネット上の匿名性批判は、かえって日本のネット利用者から言論の自由を奪う可能性が高く、非常に危険なのだ。
それを分かっていないから、勝間和代はナイーブ過ぎてダメなのである。