日経ビジネスオンライン新連載にさっそく論理的ほころび発見

日経ビジネスオンラインが、決して一流オンライン経済誌ではなく、単なるネタ提供サイトだという証拠になる記事を、今日も一つ見つけた。
『草野耕一のあまり法律家的でない法律論』
今日2010/10/14から始まった新連載だが、「第1話 どうしたら正義を語ることができるのか」からして、かなりトンデモな内容になっている。
「どうしたら正義を語ることができるのか」というタイトルから、一瞬、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の名講義のような内容を期待してしまうが、見事に裏切られてしまう。
冒頭にヘーゲルの「ミネルバのふくろう」の引用があるのも、竜頭蛇尾的で少し悲しい。
「現代社会のニーズに応えるために法律学はいかなる自己改革をはかるべきか。この問題を解く糸口として、とりあえず次の問いへの答えを考えてもらいたい」
このように大上段に構えて、草野耕一氏が提示する問いは、次のようなものだ。
「嘘をつくことはなぜ悪いのか。その理由を明らかにせよ」
これに対して草野耕一氏は、「嘘をついてはいけない」というルールの存在を前提とするような解答をしてはいけないと念を押した上で、次のように論を展開する。
「どうしたらルールの正しさが示せるのか。考えられる方法は一つしかない、と私は思う。『嘘をついてはいけない』というルールが存在する社会とこのルールが存在しない社会を比較し、どちらの社会が望ましいかを考えるのである。
「自由に嘘をつくことができる社会、それは、著しく貧しい社会であろう。この社会では誰も人の言うことを信用しないし、信用してもらおうと思う人もいない。そのため金銭の貸し借りは生まれず、すべての取引は商品やサービスの提供と代金の支払いを同時に行う方法によってしか成立しない。これでは産業の発展に必要な資本の蓄積が進むはずがない。」(以上引用)
ここまでで草野耕一氏の議論が、すでに論理的に破綻していることはお分かりだろう。
「自由に嘘をつくことができる社会」が存在したとして、誰が嘘をついていて、誰が真実を話しているかを、どうやって判別するつもりだろうか。
単純な事実、例えば「私は昨日の夜9時に丸の内の大型書店にいました」とAさんが言ったとして、それが真実であることを大型書店の防犯カメラの録画にもとめたところで、そのカメラが改ざんされていないことを保証するものは何もない。何しろ、自由に嘘をつける社会なのだから。
単純な事実でさえ、その真実性の立証が不可能なのに、「私はあなたから借りたお金を返却期日までに必ず返します」など、個人の意思を表明したに過ぎない言表の真実性など、立証しようがないではないか。
実は、「嘘をついてはいけない」というルールの存在する社会であっても、何が嘘で何が真実かを、究極的に立証する方法は存在しない。だからこそ「真実とは何か」「何をもって真実であるという根拠にするのか」といったことが、古代以来、哲学や論理学という学問の永遠のテーマになっているのだ。
「嘘をついてはいけない」というルールが「正しい」ルールであるかどうかを検証するときに、嘘と真実を見分ける基準が、すでにあることを仮定してはいけない。なのに草野耕一氏は仮定してしまっている。
これは、まじめに西洋哲学史を勉強していれば、哲学の永遠の課題として、比較的最初に学ぶことなのだが、草野耕一氏はこの課題をいとも簡単にすっ飛ばしてしまっている。
これに続いて草野耕一氏は「規則帰結主義」の考え方を示す例として、「経営判断の原則」が「正しい」かどうかを検討している。
「会社の経営者がミスを犯して会社に損害を与えても経営者の意思決定過程が合理的である限り法的責任を負わない」という「経営判断の原則」と呼ばれるルールが、「正しい」かどうかを、そのルールが認められる企業社会と、認められない企業社会を比較して検証してみようというわけだ。
その比較は、引用すると長くなりすぎるので、コラムの原文を読んで頂きたい。
簡単にいえば、草野耕一氏の比較論証は、経営者が自分自身の法的・経済的リスクを最小化することを行動原則としている存在であり、その行動原則に矛盾した行動はとらない、ということを仮定してしまっている。
草野耕一氏自身、氏が記述した「規則帰結主義の立場に立った経営判断の原則の擁護論」の限界を、次のように認めている。
「ご覧のとおり、この主張は仮説に満ちたものであり、したがってその結論は断定的なものとはほど遠い。個々の仮説に対しては理論や実証に則った反論が可能であり、その次第によって主張が覆される可能性も大いにある」
ところが、草野耕一氏は続いて次のように書いている。
「しかし、このことは規則帰結主義の欠点ではなく、むしろその利点と言うべきだろう。正義論や法律論を難解な概念操作の世界から解き放ち、これを反証可能性(falsifiability)のある命題の集積とすること、それが規則帰結主義の目指すところだ」
ちょっと待って下さい、と言いたくなる。
草野耕一氏がここで取っている方法論は、規則帰結主義とも行為帰結主義とも無関係だし、まして「経営判断の原則」とそれに対立する企業社会の原則とも無関係である。
ここで草野耕一氏が一貫して取っている方法論は、あるルールを正しいとする社会と、そうでない社会をそれぞれ思考実験として仮想してみて、その二つの社会を比較して、ルールの良し悪しを合理的に判断できるはずだ、という方法論である。
この方法論を取るにあたって、「ルールが変われば人間の行動様式も変わる」という規則帰結主義を取るか、これと対比される行為帰結主義を取るかは関係ない。
草野耕一氏の推論の形式だけを取り出すと、あるルールを正しいとする社会と、そうでない社会の二つを比較すれば、ルール自体の良し悪しを判断できる、という形式になっている。
この推論の形式が妥当な方法論として成り立つためには、あるルールを正しいとする社会と、そうでない社会を仮想するとき、当該のルールが正しいかどうかの価値判断から完全に自由な立場がなければならない。
しかし、上述の「経営判断の原則」を検証するにあたっても、草野耕一氏は、経営者はリスクを最小化する行動をする経済合理的な人種、という前提を密輸入してしまっている。
しかし経営者の行動の経済合理性という暗黙の前提は、草野耕一氏が検証したかったはずの、「経営判断の原則」を正しいとする論拠の先取りになっている。
あるルールを正しいとする社会と、そうでない社会を比較するとき、検証の対象となっている当該のルールから完全に自由な、いわば「神の視点」のような観察者としての視点を本当に取りうるのか。この点こそ、真っ先に問題にされるべきなのだ。
草野耕一氏は最後にカール・ポパーの反証可能性という考え方に触れているが、ポパーの反証可能性は、推論形式の妥当性を無垢なまま放置するものではないはずだ。
なので、草野耕一氏は、まず、ルールの存在する社会と存在しない社会を、当該のルールから完全に客観的に観察できる視点を、どこから得ているのか、それを明らかにしなければ、つねに「結論を先取りしているだけではないか」という批判をまぬかれない。
...といった感じで、やはり日経ビジネスオンラインの連載コラムは、突っ込みどころ満載なのであった。