中村うさぎ『私という病』(新潮文庫)を読んだ

中村うさぎ『私という病』(新潮文庫)を読んだ。

僕は中村うさぎという人の本を読むのは初めてだ。本書を手に取るきっかけは、何だか知らないけどAmazonをブラブラしていたら、たまたま本書を見つけて、カスタマレビューの評価がとても高かったこと。
確かに、たった3日間のデリヘル嬢体験を、深い自己分析から女性嫌悪社会への根本的な批判へと、飄々としたタッチで無理なく展開していく筆致は絶妙だと感じた。
ただ、大学時代、フェミニズム活動にどっぷり浸かっていた僕なら、手放しで賞賛しただろうが、今となっては素直に賛同できない。
大学時代、フェミニズム活動にどっぷり浸かった結果、僕が出した結論は、異性愛者、かつ、生物学的に男性である男性は、いかにフェミニズムに関わっても偽善にしかならない、というものだからだ。
中村うさぎの言う女性嫌悪など実在しないと言いたいわけではない。今の社会が男性による男性のための社会として動いていることは確かだ。
中村うさぎ自身、女性としてそんな社会を嫌悪しつつも、そこに依存せずには存在できない二律背反を率直に書いている。そもそも中村うさぎの書物が書店に並ぶまでには、女性差別的な無数の男性による地味な仕事の積み重ねがある。
しかしそれでも、中村うさぎはナイーブ過ぎるように読める。3つ理由がある。
まず一つめの理由は、この社会を非難する立ち位置を、簡単に見つけてしまっているからだ。それは、本書のあとがきに現われている。
本書の単行本が出たとき、中村うさぎは作家の永江朗氏からインタビューを受け、「それじゃあ男はどうすればいいんですか」と質問されたという。僕も同感だ。
ここまで激烈に男性中心の社会を批判しても、この社会から完全に自由なユートピアが存在するわけではない。だが中村うさぎの批判は、ユートピアの可能性を前提とし、そこに立ち位置を見つけているように読める。
二つめの理由は、中村うさぎに女性性を肯定できないような経験をさせた男たちは、確かに非難されるべきであるが、男は神様ではない。
男は単なる人間であり、救いようのない性格上の欠点があっても不思議ではない。逆に、中村うさぎが何故ここまで理想的な男性像や、理想的な社会像が実現可能であるかのように語り続けるのか、僕には理解できない。
中村うさぎは現実を割り切っているようでいて、実は強烈な理想主義者なのだろう。理想主義者だからこそ現実に深く絶望する。
そういう理想主義者の側面は、中村うさぎの世代のせいかもしれない。1970年代生まれの僕からすると、あまりにナイーブに見える。
三つめの理由は、男性も素直に男性性を自己肯定しているわけではなく、女性と時期こそ異なるが、内面的な孤独に苦しむ。組織に使い捨てられ、自殺を選ぶ割合が、男性の方が圧倒的に多いのはそのせいだ。
男性も、一見、自分たちに都合のいいように作り上げた当の社会によって、使い捨てられ、心も体もすり減らされ、疲れ、絶望する可能性と隣り合わせに生きている。
もちろんだからと言って男性による女性差別が正当化されるわけではないが、中村うさぎのように男性を「悪」と見なし、世界から男性がいなくなるか、男性とのコミュニケーションを拒絶すれば、問題が解決するわけでもない。
究極のところ、中村うさぎという人間は、男性と女性がありきたりなセックスをしなければこの世に生まれて来なかった。
女性差別の問題は、中村うさぎが書いているような、個人としての自己との葛藤にとどまらない。中村うさぎ自身の実在が、女性と男性の関わりがなければ産み出されなかったように、常に両性のコミュニケーションの問題だ。
と書いている僕自身、コミュニケーションの問題として女性差別を論じる資格がないので、女性差別について考えることをやめてしまったのだが。