FNS26時間テレビとヘキサゴンファミリーに見る格差社会

島田紳助が司会をつとめた「絆」をテーマにしたFNS26時間テレビ批判。先日ご紹介した、日経ビジネスオンラインに小田嶋隆氏が書いたコラムもその一つだ。
小田嶋隆氏「『絆って美しい』を疑ってみる」(日経ビジネスオンライン2010/07/30掲載分)
ただ、よく考えると、一視聴者としての僕のほうが、テレビに対して時代錯誤の期待をいだいているだけでは、という気がしてきた。
テレビは、かつては日本全国に動画情報を一度に広く伝達する、ほぼ唯一のメディアだったが、今ではインターネットという代替物が存在する。
なので、かつてテレビは、どのチャンネルかは別として、誰もが熱心に見るものという暗黙の前提があったが、今ではこの前提そのものが、僕らが思っているよりもひどく崩壊してしまっているのではないか。
つまり、テレビはもはや、テレビくらいしか娯楽のない人たち、あるいは、テレビ番組の内容を何の疑問も抱かずにナイーブに楽しめる人たちだけのためのメディアに変化しているのだろう。
その他の人たちは、インターネットを使ったり、逆にラジオや書籍などの旧来のメディアを使ったりすることに、より多くの時間を割いている。
日本社会では、この二つのグループの分離が、僕らが思っている以上に進んでいるのかもしれない。
なので、島田紳助のヘキサゴンファミリー的な、平たく言ってしまえばヤンキー的な絆に感情移入できる種類の人たちしか、FNS26時間テレビを見られなくなっているのだろう。
そして、昔のかなりムチャのある実験的な笑いを提供していたFNS26時間(27時間)テレビが好きだった人たちは、今ではネットにハマっているのかもしれない。
その意味でテレビというメディアは、衆愚という意味でのマス(大衆)のためメディアという性格を、どんどん強めて行っているのだろう。
そのことを分かった上で、斜めからテレビを楽しむ人たちと、ナイーブに感情移入してしまう人たちとでは、同じテレビでも、すでに見方が全く違ってしまっているのだ。きっと。
日経ビジネスオンラインで小田嶋隆氏のコラムに共感するような人たちが、そもそも島田紳助とヘキサゴンファミリーに、ナイーブに感情移入できるはずがない。
すでにメディアリテラシーに関する社会的格差は、はっきり存在しているのだろう。