鬼束ちひろ『ONE OF PILLARS』レビュー(2):意外に素朴なアイデンティティー宣言

鬼束ちひろのベストアルバム『ONE OF PILLAERS』(2010/04/28発売)のレビューの続き。もう少し物質的な面について。

歌詞カードが豪華28ページのブックレットになっているが、2009/10/28発売の5thアルバム『DOROTHY』と同様、扉の言葉がある。
ブックレットの見開き右ページには、コンサート「NINE DIRTS AND SNOW WHITE FLICKERS」で、最後にピースサインをしながら舞台を去っていく、コンサートマスターの富樫春生氏と、鬼束ちひろの後ろ姿の写真。
その下に「DREAD/VIOLIN/AND/LITTLE PRETTY STUDS」という英語。(スラッシュは改行)
「dread」という単語は「恐ろしい」という形容詞にしかならないが、鬼束ちひろは写真の富樫春生氏のドレッドヘアーを指したつもりだろう。そして「VIOLIN」は同じ写真の右端に見切れているバイオリン。
ということは、残る「LITTLE PRETTY STUDS(小さくて可愛らしい鋲)」は、後ろ姿で写っている鬼束ちひろの衣装のベルトに打ち込まれた無数の銀色の鋲を指している。
つまり、この扉の言葉は写真をそのまま説明しているだけで、特に深い意味はない。
ただし人間を表すのにドレッドヘアーやベルトの鋲など、一部分で人全体を表現する修辞法は広義の換喩で、鬼束ちひろはたぶん意図的に使っている。
ただ、より重要なのは、この言葉がメタメッセージを伝えているということだ。
それは、「扉の言葉そのものに深い意味はなく、単に上の写真を即物的に説明しているだけですよ」というメタメッセージだ。
そのメタメッセージを無意識のうちに理解してページをめくると、同じく「NINE DIRTS AND SNOW WHITE FLICKERS」で、アンコール前に白いドレスをまとっていた鬼束ちひろの立ち姿の写真がある。
そしてその写真の下には「I AM NOT A PRINCESS/BECAUSE/I AM QUEEN」とある。
鬼束ちひろファンなら3rdアルバム『SUGAR HIGH』の1曲目『NOT YOUR GOD』の歌詞と、4thアルバムの『A Horse and A Queen』という曲を思い出すかもしれない。まず『NOT YOUR GOD』の歌詞。
I’m not your God
I’m not twinkle princess
I’m not your angel
Don’t confuse me
英語として正しくは「I’m not a twinkling princess」だが、この曲の歌詞で最後まで、神でも王妃でも天使でもないなら、一体「私」は何なのか、答えはない。
それに対して今回の『ONE OF PILLARS』では、鬼束ちひろ自身の写真の下に、「私は女王」とはっきり書かれている。しかも定冠詞も不定冠詞もなしで。
『A Horse and A Queen』という曲名の「A Queen」は、彼女がシンガー・ソングライターになる直接の霊感を与えたアーティスト、Jewelを指すとされる。
ただ、不定冠詞が付いているので、Jewelも鬼束ちひろにとって霊感の源泉となるアーティストのうちの一人に過ぎないことを表している。
つまり「I AM QUEEN」という言葉は、鬼束ちひろが、かつては自分の霊感の源泉となる様々なアーティストを指していた「queen」という言葉が、いまや自分自身を指していることの宣言になっている。
「私は私」というアイデンティティーの宣言。「私は私を愛せないまま」(『MAGICAL WORLD』の歌詞より)生きてきた「私」による、「私は私」という自己同一性の宣言。
そこで僕らは、今さらのようにこのアルバムが、初めて鬼束ちひろ本人が関与したベストアルバムだということを思い出す。
そして「I AM QUEEN」というアイデンティティー宣言が、そんなベストアルバム『ONE OF PILLARS』の扉の言葉として、これ以上ないくらいふさわしいことに気付く。
やられたよ、ちーちゃん。
このアルバムの全体が「私」、鬼束ちひろである。そう宣言する言葉で28ページのブックレットは始まっている。
そしてブックレットの末尾は「HISTORY OF CHIHIRO ONITSUKA」と題され、6ページにわたって、1980年10月30日に宮崎県で生まれたところから、5thアルバム『DOROTHY』発売まで、図版入りの年表になっている。
鬼束ちひろというアーティストが、ややナイーブなのではないかと思えるほどストレートに、自分のアイデンティティーを表現することに、違和感を抱く人もいるかもしれない。
ただ、おそらくこれが、5thアルバム『DOROTHY』の扉の言葉に書かれていた「より明るいシナリオ」の一つの側面なのだ。
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