「人を『理解する』なんて大それた行為で、ちょっと軽々しくは言えないなぁ」

先日の「あなた様は他者の考えを理解してみようとか考えないのでしょうか?」という記事について、対照的な2つのご感想メールを頂いたので、ご紹介したい。
一つは、地方から都市に出て来て、自営で学習塾を開いていらっしゃる方。
僕が「フッサール」だの「デリダ」だの、一部の人にしか分からない人名を散りばめたにもかかわらず、この方は、ご自身の生徒である中高生たちとの、日ごろの関わりに引きつけて、僕の記事を理解しようとして頂いた。感謝に耐えない。
この方のメールで最も印象的だったのは、以下の一文だ。
「人を『理解する』なんて大それた行為で/ちょっと軽々しくは言えないなぁ・・・と思います」
まさに僕の言いたかったことを、一言で表現して頂いている。
おそらくこの方は、塾の先生として、世代も考え方も違う中高生という「他者」と日々向き合い、どうしたら分かり合えるか、どうしたら物事を「教える」ことが成り立つのか、試行錯誤していらっしゃるのだろうと想像する。
だからこそ、そうかんたんに「理解する」なんてことは成り立たないと、身を持って体験されているのではないか。
また、「非実在青少年」問題についても言及いただき、世の中から「ヲタク」呼ばわりされかねない中高生たちの中には…
「この社会(大人)の異常さ(?)を感じている子達も/他者への理解について考えを持っている子達も/意外と多いのかもしれませんね。/ていうか、多くいて欲しい」
…と書かれている。
僕も「他者」を分かろうとしないのは、むしろこの社会で一定の地位を得て、この社会を動かしている大人の方ではないのか、という気がする。
もう一つ、対照的なご意見を頂いた。
実はこの方は、まさに「あなた様は他者の考えを理解してみようとか考えないのでしょうか?」という問い掛けを頂いたご本人だ。
こちらは、ご本人の意図を尊重するため、あえて何のコメントもつけず、頂いたメール全文をそのまま引用させて頂く。

「『あなた様』と今どき聞かないような敬語を使って語りかけている人に対して、『カント』だ『デリダ』だ『フッサール』だと、恐らく相手の知らない人名を持ち出して門前払いを食らわせている。『目線』は知らないが、『上から』ものを言っているのが、君の方だとは思わないか?」

以上。