桂ざこば師匠いわく「人間、死なれへんようになるがな」

奈良県立医科大学がマウスのiPS細胞から腸を作りだすことに成功したニュース。ほとんどの媒体で好意的に取り上げられている。
しかし、毎日放送制作の『知っとこ』という土曜朝の情報番組で、桂ざこば師匠が素晴らしい一言をつぶやいた。
「そんなことしたら、人間、死なれへんようになるがな」
さすが、一芸を極めた人の言うことは違うなぁと、テレビの前で感動してしまった。
桂ざこば師匠のつぶやきは、医学の進歩によって、人間がなかなか「死ねなくなる」ことは無条件に「良い」ことなのだろうか?という、とても本質的な問題提起だ。
他の出演者は「それは本人の意思で選択できるようになるんでしょうね」など、尊厳死の問題に軽くふれてその場をおさめた。
医学の進歩で、先進諸国の平均寿命は伸びる一方。これを無条件に良いことだと評価するのは素朴すぎるだろう。
ここまで平均寿命が伸びるのは、人類が今まで経験したことのない未曾有の事態だ。
まして先進諸国では同時に少子高齢化が進んでいる。限られた国の資源を、死にゆく人たちにあてるのか、生まれてくる命にあてるのか、世代間の資源配分が、おそらくこれから深刻な問題になる。
そのようにマクロな観点から見ても、長生きすることが無条件に「良い」とする議論は単純すぎる。
一方、ミクロな観点、つまり一人ひとりの考え方から見たときも、長く生きることが無条件に「良い」というのは単純すぎる。
一昨日だったか、自動車工場の中の自動車の中で、工員が硫化水素自殺をしたニュースがあった。
そのとき、ミクシィ日記の大半の反応が、「死ぬのは勝手だが、4時間でも生産ラインが止まれば大勢に迷惑がかかるんだから、死ぬ場所を考えろ」というものだった。鉄道の飛び込み自殺についても、よく言われることだ。
僕はそのうちの一つの日記に対して、「もしこの自殺者があなたのパートナーや肉親だったら、同じような非難を浴びても仕方ないと甘受できますか」と、反論のコメントをしておいた。
自殺はどんな方法をとっても、誰かしらに何らかの形で必ず迷惑をかける。ただ、忘れていけないのは、自殺者は死にたくて死んでいるわけではないということだ。
自殺者のほとんどは、生き続けたいのに、死ぬしかないところまで追い詰められた結果、やむを得ず死を選んでいる。このことを理解していない人間が多すぎる。
自殺者に対して、「自分の勝手で死ぬなら他人に迷惑をかけるな」と言うのは、他者に対する想像力が欠如している。
同じように、「すべての人間は長生きしたいと思っている」と考えるのは、他者に対する想像力が欠如している。
なぜこのような記事を書いたかと言えば、余名いくばくもないという方から、「あなたにはまだ十分な時間が残されているではありませんか。毎日のように長ったらしい駄文など書くのはやめて、ご自身と周囲との関係を改善し、もっと快適な生涯を送られますことを切に願っております」というメールを頂いたからだ。
ご助言はありがたいが、人生観は人それぞれ。僕はウソをついてまで周囲に同調し、仲良くすることが、快適な生涯だとは到底考えられない。
そのメールを頂いた方は、僕のブログだけを読んで、実際に会ったこともないのに、「そうやって他人を寄せ付けようとしない態度」と、自分の価値観で僕の生活態度を評価されている。
しかし、それはあなたの価値観にもとづく評価であり、そういう評価もあることは分かるが、僕はとてもそんな風には生きられない。
僕自身残念に思っているが、僕の社交性のなさがその最大の原因だ。もう40歳になろうという人間が、今から根本的に性格を改善することなど不可能だ。残念ながら、僕は僕の使える資源の範囲内で生きていくしかない。
マクロレベルでは、国が配分できる資源が有限であり、それを高齢者に使うのか、少子化対策に使うのか、世代間で資源の奪い合いになる。したがって「長生きするのは良いことだ」という考えは単純すぎる。
ミクロレベルでも、僕くらいの年齢になった人間は、持てる能力や資源が有限なので、その範囲内で、どうにかこうにか生きていくしかない。
上述の自殺者に対して、ミクシィ日記で「自分の勝手で死ぬのはいいが他人に迷惑かけるな」と書いた人々は、おそらく若者が多く、個人の持っている資源は無限だという、とんでもない勘違いをしているのではないか。
しかし自殺者の大半は、上述のように、生きていくための個人の資源(=お金、人間関係、心身の健康など)がなくなったために、追い詰められ、やむを得ず自殺を選んでいる。
僕にメールを下さった方に対して、残酷であることを承知で、次のように反論したい。
あなたの持っている資源(=余命)が有限であるように、アラフォーの僕の持っている資源(=社交性、人間関係、価値観、能力、基礎体力など)も残念ながら有限であり、その範囲内で生きていくしかない。
そういう僕に対して「あなたにはまだ十分な時間が残されているではありませんか」と言うのは、自殺者に対して「死ぬのはあんたの勝手だが」と言うのと同じくらい、楽観的すぎる。
僕だって、好きで社交性のない人間になったわけではないし、好きでこのような価値観の人間になったわけではない。
「人間は大抵のことを自分の意思で変えられる」というのは、素朴すぎる全能感だ。
「長生きすることは無条件に良い」と考えるのも、素朴すぎる人生観だ。
失礼ながら、50歳を過ぎた方が、その年齢にしていまだに、こうした素朴な全能感や人生観をお持ちであることが、僕のような若輩者からしても、とても不思議だ。
現に、桂ざこば師匠のように、人間の寿命がどんどん延び、「死なれへんようになる」ことを嘆く観点をお持ちの方もいらっしゃる。
現代の人間には、これまでは通用してきたかもしれない倫理観を、勇気をもって相対化する観点が必要だと、僕は考える。