「あなた様は他者の考えを理解してみようとか考えないのでしょうか?」

面白いご感想メールを頂いたので、記事のネタにしてみたい。その方からは、いくつかご質問を頂いたが、その中に次のようなものがあった。
「食べるために行列する人間が全く理解できないそうですが、あなた様は他者の考えを理解してみようとか考えないのでしょうか?」
いわゆる「上から目線」の質問で、「私は他者の考えを理解してみようと考えるのに、あなたは考えない。したがって私の方が優れている」というメタ・コミュニケーションになっている。質問された方は当然、確信犯だろう。
たしかに以前ここで、僕が食べ物に執着のないこと、飲食店に行列を作る人間の気が知れないという趣旨のことを書いた。
まず基本的な言語学上の問題について、ご感想を頂いた方に誤解があるといけないので、念のため説明しておく。
AさんがBさんに対して「いったいお前は何をやってんだ?」と言ったら、Aさんは文字どおりBさんが何をしているのか質問しているわけではない。「お前のやっていることは間違っている!」と言いたいのだ。
親が子供に「なんでそんなことするの?」と言ったら、理由を質問しているわけではなく、「そんなことしちゃいけません!」という意味だ。
同じように、僕が「どうして飲食店に行列なんて作るんだ?」と書いたら、それは行列を作る人たちの気持ちが理解できなくて疑問を呈しているのではなく、「飲食店に行列を作ることは非合理的だ」という言いたいだけだ。
したがって、ご感想メールを頂いた方の、僕に対する「あなた様は他者の考えを理解してみようとか考えないのでしょうか?」という質問は、的外れである。
飲食店に行列する人たちは、当然、美味しいものを食べるためには、時間をかけて待っても割に合うと考えているのだ。なので、僕は行列する人たちのことを理解している。
とすると残る問題は、なぜ僕が、食べ物のために行列を作ることを非合理的と考えるのか、である。
理由は簡単で、僕にとっては食べ物よりも時間をかけるに値するより重要な事が山ほどあるから、である。
もちろん僕は自分の考えを、飲食店に行列を作っている人に押し付けるつもりは全くない。何を重要と思うかは人それぞれ。僕という人間の場合、たまたま食べ物の優先順位が低いだけのことで、食べ物の優先順位が高い人がいても全然かまわない。
以上が、最初のご質問に対する僕の回答だ。
ただ、議論はここで終わらない。
学生時代にフランスのポストモダン思想をかじった者として、ぜひともご感想メールを頂いた方に、逆質問したいことがある。それは次のようなものだ。
「他者の考えを『理解』するとは、どういう状態のことを言うのでしょうか?」
「他者の考えを『理解』するなど、そもそも可能なのでしょうか?」
これは西洋哲学史上、最も重要な問題の一つで、僕ごときに解答が出せるような簡単な問題ではない。
しかし、ご感想メールを頂いた方は僕に対して、確かに「あなた様は他者の考えを理解してみようとか考えないのでしょうか?」と質問されている。
このような質問は、「理解」という現象が、「理解」する主体が一定の努力をしさえすれば成立することを前提としなければ成り立たない質問だ。
僕は「他者を理解する」ことは不可能だと考える。
たとえば、僕が飲食店に行列を作っている人たちに、直接、質問しに行ってもいいだろう。質問された人は、「ここのラーメンのスープはコクがあるのにあっさりしてるって聞いたからね…」などと答えるだろう。
このような対話によって、僕と、飲食店に行列を作ってる人との間に、「理解」が成立したことをどうやって証明できるだろうか。
カント的に言えば、僕は自分の耳で聞いた音声を、日本語として認識し、自分の悟性という「色眼鏡」を通じて、一定の解釈を得ただけだ。この解釈が、相手が心の中で思っていることと一致している保証はどこにもない。

デリダ的に言えば、僕と、飲食店に行列を作っている人との間には、永遠に誤解しか生じないが、その誤解こそが、理解可能性の条件になっている。
そろそろボロが出るので、このあたりでやめておく。
いずれにせよ、僕にこの種のご質問を頂く際には、僕が大学時代に、イヤというほど「他者」の問題について、フッサールやデリダを手がかりにして考え、大学院への進学さえ考えた人間であることをご承知の上で、厳密に質問を組み立てて頂ければ幸いである。