「伝統」は分離不可能ゆえに「伝統」として機能する

朝青龍の引退にかんする記事について、「相撲協会の上層部が無能を取り繕おうと持ち出す伝統と、内館氏のいう品格や伝統は別のものだ」とのご意見を頂いた。
このご意見はそのとおりである。(そんなこと、言われなくても分かっている)
僕が言いたかったのは、当事者である日本相撲協会が、閉鎖的な角界内部のごたごたを取りつくろうための「伝統」と、内館牧子氏のいう「伝統」を、自覚的に使い分けているだろうか、ということだ。
そもそも「伝統」という言葉には、自己同一性と不変性が含意されている。
例えば、毎回ころころ変わるようなものに対して、ふつう「伝統」という言葉は使わない。
仮に日本相撲協会が、「伝統」には二種類あり、それを自覚的に使い分けているとすれば、単なる二重規範・ご都合主義であり、もはや「伝統」とは呼べない。
もし現状の角界が腐敗しているとすれば、それも「伝統」の一側面なのである。それが「腐敗」に見えるのは、角界をとりまく日本社会の方が変化し、それを「腐敗」と名付けたからだ。
昔なら、弟子に対する体罰は、角界の「伝統」として何ら問題にならなかった。しかし現代の日本社会はそれを「伝統」として許さず、「腐敗」と呼ぶまでに変化している。
日本相撲協会の理事選にしても、今までは完全な「出来レース」であっても、誰も「閉鎖的」だとか「腐敗」だとか言わなかった。
なのに、貴乃花親方が当選し、立浪一門の「犯人探し」が明るみにでると、日本社会は突然「閉鎖的」だの「腐敗」だのと言い出す。
挙句の果ては、ご意見を頂いた方のように、角界の「伝統」には、都合の悪いことを取りつくろう「腐敗した伝統」と、内館牧子氏の言うような守るべき「良き伝統」の二種類があると言い出す人間が出てくる始末だ。
くり返しになるが、角界や皇室の「伝統」は、あくまで一つであり、不変である。
その同一不変の「伝統」を、社会の側が勝手に「悪い伝統」と「良い伝統」に分離していだけだ。
「清濁併せ呑む」という言葉があるが、「伝統」とはそもそも「清濁併せ呑む」ものだ。一方には美しい格式があり、他方には閉鎖性や暴力性がある。
僕が言いたいのは、意見を頂いた方のように、「伝統」を「良い伝統」と「悪い伝統」に分けてしまったが最後、それはもはや「伝統」とは言えず、単なる「規則」になってしまうということだ。
もちろん日本相撲協会が、今後は「伝統」ではなく、現代の日本社会に受け入れられる「規則」に従って運営していきますと、自覚的に方向転換するなら、それはそれで一つの選択肢だ。
しかし、日本社会の側が、日本相撲協会の「伝統」を、勝手に「良い伝統」と「悪い伝統」に分離して、「伝統」を「伝統」でなくしてしまう権限はない。
僕個人は、石原都知事に賛成でも反対でもない。
ただ、石原都知事は、僕に意見を頂いた方を含む大多数の日本人のように、「伝統」を「良い伝統」と「悪い伝統」に分離できると考えるような、一貫性のない考え方はしない。
内館牧子氏も同じで、朝青龍を一貫して非難し続けたことからわかるように、日本相撲協会の「伝統」の同一性・不変性を前提としている。つまり「伝統」は「良い伝統」と「悪い伝統」に分離できないという前提で、ずっと議論してきている。
石原都知事や内館牧子氏のような思考こそ、「伝統」の本質に適合した思考である。
(※くり返しになるが、「伝統は同一不変である」という考え方自体に、僕が賛成か反対かはどうでもいい。僕は、社会システムの中で「伝統」の果たす「機能」が、「同一性」「不変性」だということを観察者として記述しているだけだ)
「伝統」を「良い伝統」と「悪い伝統」に勝手に分ける人は、自分の態度が「伝統」の社会的機能と矛盾していることを分かっていない。
自分の勝手な考えに基づいて、ある時は「伝統」のある部分を「良し」とし、ある時には「伝統」のある部分を「悪い」とするなら、それはもはや「伝統」ではなく、単なる「規則」なのだ。
雅子様と朝青龍に関する僕の記事は、社会システムにおける「伝統」の機能に忠実に思考実験をすると、社会システムの変化自体によって、「伝統」の機能自体が本質的に変化せざるをえなくなるのではないか、という予測を、一観察者として記述しただけだ。
いったい僕の記事をどう読めば、僕が「朝青龍批判をする人を批判している」ように読めるのか、僕にはまったく理解できない。
現に「しかしそれでも(…)日本の『伝統』を守れない力士は断じて去るべきなのである」と書いたではないか。
僕の記事にご意見を頂くのは結構だが、僕の書いていることは、自分で言うのも何だが、皆さんが思っている以上に、繊細で、緻密で、難解である。
なので、ざっと読み飛ばした程度で、ご意見を頂くのはやめて頂きたい。理解を正すだけでこうして1時間半も時間を割かなければならないからだ。