中島美嘉が『CUT』2010年2月号に登場

中島美嘉が雑誌『CUT』2010/02月号に登場している。

「セクシー2010」というサブタイトルだが、中島美嘉は体のラインが見えるブラック(グレー?)のボディースーツのようなものを着ているだけで、セクシーというほどでもない。
それより中島美嘉のインタビュー記事の方を、書店で思わず読みこんでしまった。(良い子はちゃんとお金を払って買いましょうね)
自分のやりたい事だけをやっていたのが、アルバム『YES』の頃まで。でも、自分のやりたい事だけをやっていると、いつかやり尽くして何もすることがなくなり、行き詰まってしまうかもしれないという怖さが出てきた。
中島美嘉はそう語っていた。
映画『NANA』の主演についても、中島美嘉はやはり疑問を持っていたようだ。
しかし、一昨年のアルバム『VOICE』でアップテンポな曲が増えたことからも分かるように、自分で自分に枠をはめないことに決めたとのこと。
中島美嘉とソニーのスタッフたちのチームの中で、中島美嘉自身がリーダーとして引っ張る役になってしまうと、表現や活動の幅が収束してしまう。
なので、今はチームの中でいちばん後ろにいて、逆に周囲から教えてもらう後輩の立場として振る舞うように心がけているのだという。
中島美嘉は歌手であり、少し作詞はするけれどもクリエイターではない。なので鬼束ちひろと単純比較はできない。

しかし、鬼束ちひろのようなシンガーソングライターは、作詞・作曲ができてしまうだけに、かえって自分の好きな音楽を突き詰めることができ、結果としてやりたい事をやり尽くして行き詰まるということがあるのかもしれない。
鬼束ちひろが精神的に最悪だった時期の曲、「育つ雑草」に「私はフリーで 少しもフリーじゃない」という歌詞があるが、やはり自由というものは、フランスの哲学者・サルトルが言ったように、人間にとって牢獄として、終身刑としても機能する。
袋小路に入ってしまう前に、そのことに気づいた中島美嘉は、やはり器用で柔軟なのだなあと思った。鬼束ちひろは、生真面目すぎて不器用なのだろう。
そして、柴田淳も生真面目すぎて、頑固で、適度に不器用だが、鬼束ちひろのようにインテリ過ぎない点で、まだ救われているような気がする。
最近、集中力が続かず、本格的な思想書を読めないので、立ち読みした雑誌の記事の感想程度の内容で申し訳ない。