柴田淳=ミス・ネガティブのザ・ブラックホール・ソングに期待

柴田淳の公式サイトの日記に突っ込みを入れてみる。
2010/01/19の日記では「明るい曲が書けなくたっていいじゃないかっ」と書いてある。
これはおっしゃるとおり。
ミスネガティブの柴田淳に、例えば最新アルバムの『ゴーストライター』で言えば、誰も「うちうのほうそく」や「透明光速で会いに行く」のような明るい曲を求めてはいない。

サビに「いつかあなたが死んでいっても」みたいな縁起でもない歌詞がドカンと入ってくるような曲こそ、柴田淳が書くにふさわしい曲だ。
ただし、やはり柴田淳の現実認識はやや甘くて、暗い曲を書く女性シンガーソングライターという市場も、ニッチな市場のようでいて、案外過当競争になっている。
代表格は鬼束ちひろやCoccoで、鬼束ちひろは過去にミリオンやオリコン1位をとっているだけあって手ごわい。歌詞の言葉の選び方も、柴田淳の歌詞の言葉の選び方より残酷だ。
柴田淳には鬼束ちひろのように「私はいま死んでいる」とは書けないし、Coccoのようにリストカットの歌詞も書けない。
おそらく柴田淳は意図的に、自分の感情をフィルタにかけて、歌詞においては美しくて穏当な言葉だけをつむぎ出すように努力している。
それから、柴田淳の歌詞には「原罪」がない。人間が生まれながらにして持っていて、死ぬまで贖えない罪が書かれていない。柴田淳が暗い曲を極めても、それはあくまで、人間と人間の関係のドロドロであって、人間と超越的な存在の関係のドロドロには踏み込めない。
これには理由があって、柴田淳が日本文学でいう田山花袋的な「私小説」作家で、自分の体験や、自分の身近にいる実在の人物の体験を、歌詞の素材にしているからだ。
他方、「暗い曲」という市場で、柴田淳が戦っている鬼束ちひろやCoccoは、人間社会の水準と、超越的な存在(神様のようなもの)の水準の両方を歌詞の素材にしている。
これは僕個人の意見だが、暗さを極めると、どうしても神様のような超越的な存在、現実の世界には存在しない存在を相手にせざるを得ない。
なぜなら、暗さの極みは「死」であり、「死」は現実の世界にはなく、現実の彼岸であり、その「死」と対話するには超越的な存在をどうしても媒介にする必要があるからだ。
暗さを徹底するには、超越的な存在に呼びかけなければならない。
以上、暗い曲を極めるには、柴田淳が乗り越えなければならない壁があるかもしれないことを書いたが、実はその前に、知っておかなきゃいけないことがある。
暗い曲を極めても、売れないのだ。

世の中の大半のJ-POPリスナーは、元気になれる明るい曲を求めている。希望を与えてくれる曲を求めている。暗い曲の市場は、あくまでニッチ(すき間)市場である。
かつてミリオンを出した鬼束ちひろだって、最新アルバム『DOROTHY』は、オリコンのランキングに表記されている、推定売上枚数から推測するに、柴田淳の最新アルバム『ゴーストライター』と同程度の枚数しか売れていない。
鬼束ちひろは『DOROTHY』で、「より明るいシナリオの方へ」歩み出す宣言をしている。暗い曲を全く書かなくなるわけではないが、より明るい曲を書くんだという宣言をしている。
言い換えれば、これからも売れるCDを作るぞ!という宣言だ。
他方、柴田淳は、以前、メジャーデビューして9年たつのに売れないのは、さすがに辛いと漏らしておきながら、暗い曲を極めると書いていて、凡庸なJ-POPリスナーから見ると矛盾したことを言っている。
でも、僕が安心して柴田淳に対してこんな失礼なことが書けるのは、柴田淳は頑固でプライドが高く、自分が決めたことはそのとおりにやり遂げる性格だからだ。
僕のようなファンのはしくれが、批判めいたことを書いたって、そんなものは意に介さずわが道を行く。それでこそ柴田淳だ!
今年は、ぜひ神様のような超越的存在と心の中で対話して、人間社会の水準を超えて、世の中のすべてを飲み込んでしまうような、究極の暗い曲、ザ・ブラックホール・ソングを書いてほしい。
応援しています。