平林都と勝間和代は「ちっちゃな全体主義者」である

平林都と勝間和代の何が危険なのか。それは次の2点だ。
(1)一元論
(2)自己責任論
(3)自己拡張論
まず(1)の「一元論」とはどういうことか。
平林都は、接遇のできない人間はダメな人間、接遇のできる人間はよい人間、という具合に、人間を一つのモノサシで、できる人間(良い人間)とダメな人間(悪い人間)に仕分けする。

勝間和代は、例えば女性の生き方については、自立できない女性はダメな女性、年収600万円以上で、いいパートナーをもち、年をとるほど素敵になることで自立できる女性はすぐれた女性、という具合に、やはり人間を一つのモノサシで仕分けする。
このように、平林都や勝間和代は、たった一つのモノサシで、できる人間とダメな人間を仕分ける考え方を広めることを仕事としている。
その結果、社会は「できる人間」と「ダメな人間」に分断される。社会が二種類の人間に分断されると、当り前のことだが、両者の間に協力関係を作るという新たな課題が生まれ、社会は不安定になる。
平林都と勝間和代は、「できる人間」と「ダメな人間」に分断された不安定な社会を理想としているのだ、と非難されても仕方ない。
次に(2)の「自己責任論」とはどいういうことか。
平林都は、接遇のできる人間になろうという気持ちになるかどうかは本人次第、接遇のできる人間になれるかどうかは本人の努力次第、という具合に、成功や失敗はすべて本人の責任であると考えているように見える。
勝間和代は、明らかに、人生における成功や失敗はすべて本人の自己責任だと主張している。
こうした自己責任論は、すべての人間に「完全に」平等にチャンスが与えられている社会においてのみ、正しい。
しかし、現在の日本は残念ながら、すべての人に完全に平等にチャンスが与えられているわけではない。
むしろ、橋本行革に始まり、小泉・竹中路線に引き継がれた「誤ったネオリベ政策」のせいで、年収の高い家庭の子供はより多くのチャンスを与えられ、年収の低い家庭の子供はより多くのチャンスを奪われ、経済格差が固定化する方向にある。
格差が固定化しつつある社会において、自己責任論をとなえるのは、間違っている。
平林都と勝間和代は、自己責任論をとなえることで、「できる人間」と「ダメな人間」に分断された社会を、固定することを理想としているのだ、と非難されても仕方ない。
最後の(3)の「自己拡張論」は、少しわかりづらいかもしれない。
平林都と勝間和代が、以上のように、今の日本社会の現状においては、明らかに間違った考え方である「一元論」と「自己責任論」を、なぜあんなに一生懸命に広めようとしているのか。

それは、彼女たちが「自分に出来たんだから、皆にも出来るはず」という、きわめて素朴な考え方を持っているからだ。
「自分にできることは、やり方さえちゃんと教えてあげれば、他人にも必ずできるはず」、このような考え方は、「自分と他人は異なる個性をもった異なる人間である」という、当り前の事実をまったく無視している。
平林都や勝間和代は、人間がそれぞれ異なる個性をもつ存在であることを完全に無視し、自分にできること、自分の考えていることは、他のすべての人にも同じように当てはまるはずだと、信じ込んでいる。
このように、自分の考えが、社会全体にも当てはまると、一気に飛躍してしまう考え方を、ここでは「自己拡張論」と名付けてみた。
これは、非常に危険な考え方である。
人間の多様性を認めず、自分の信じていることが、そのまま社会全体に当てはまると考え、それを行動に移す人間は、たまに社会に現れるが、それは2つの形をとる。
一つは、ヒットラーやスターリンのような「全体主義」。もう一つは、オウム真理教の麻原彰晃ような「狂信」である。
この「自己拡張論」は、平林都や勝間和代のような当人が、行動に移し、成功すればするほど危険であることは言うまでもない。
まとめてみよう。
「一元論」は人間を「勝ち組」と「負け組」に分断し、より不安定な社会を作る。
「自己責任論」は、社会制度の側には何ら問題はなく、すべて本人の責任だと主張することで、その不安定な社会を固定する。
「自己拡張論」は、そのように固定化された不安定な社会を、無理やり安定させるために、「負け組」の口をふさぎ、反論を封じ、排除する。その最も極端なかたちが、ナチスの強制収容所である。
ただ、平林都や勝間和代は、さすがに自分たちがナチスのような存在だと、あからさまに主張するほどバカではない。
彼女たちは、自分たちの「一元論」「自己責任論」「自己拡張論」の危険性を隠ぺいするために、ヒットラーが利用し、多くの自己啓発セミナーが利用している、「感動」という道具を使う。
平林都は、自分の接遇研修の受講者に対して、恐い顔と優しい顔を意図的に使い分けることで、受講者が涙を流すほどの「感動」を与える。
勝間和代は、主に自分の過去の苦労話、つまり、二度の離婚を経て、女手ひとつで3人の子供を育てたという話を持ち出すことで、聴衆を「感動」させる。
また、勝間和代は、自分の印税の20%を世界の難民・避難民に寄付することで、読者を「感動」させる。

(※そんなに金があり余っているなら、まず日本国内の経済弱者へ再配分したらどうかと思うのは、僕だけではないだろう。もっとも身近な弱者を無視し、一気に世界の難民・避難民に飛躍するのは、それが「偽善」である何よりの証拠だ)
「感動」を与えられることで、聴衆は平林都や勝間和代の言っていることを、「正しい」と信じ込んでしまう。
この「感動」というのも「全体主義」によって使い古された手法だ。宮台真司が「感情のフック」と呼ぶ手法である。
レニ・リーフェンシュタールの『民族の祭典』というオリンピック映画や、北朝鮮のマスゲームなどの大規模なイベントも、全体主義思想を広めるときに使われる、同様の手法だ。
以上のように、平林都や勝間和代のやっていることは、実はこうして延々と論じる価値さえないような、昔からある、典型的な「全体主義」的「洗脳」である。
では、彼女たちのような活動を「中和」するために、私たちは何に気を付ければいいのか。
それは簡単である。最初に上げた3つの点を、すべて裏返していけばよい。
「一元論」ではなく「多元論」。
「自己責任論」ではなく「社会の役割と個人の役割の明確化」。
「自己拡張論」ではなく「他者との対話」。
「一元論」に対抗する「多元論」とは、人それぞれ、多様な価値観を認めることだ。
「自己責任論」に対抗する「社会の役割と個人の役割の明確化」とは、社会制度の面から解決しなければならない問題と、個人が解決しなければならない問題を、テーマごとに慎重に分けていく、根気のいる作業である。
そして「自己拡張論」に対抗する「他者との対話」とは、まず、自分の信じていることが本当に正しいのかを自分で疑い、それを検証するために、自分と異なる意見をもつ人と対話することだ。
ところで、マスメディアも、平林都や勝間和代を、一種の「きわもの」として扱うなら良い。
その意味では、昨日のTBS系『ビートたけしの新春ガチバトル』のように、勝間和代を「きわもの」扱いする番組の作り方は正しい。
しかしフジテレビ系『エチカの鏡』のように、平林都を「伝説のマナー研修講師」扱いする番組の作り方は、完全に間違っている。
みなさんも平林都や、勝間和代については、「ちっちゃなヒットラー」として「きわもの」と見なすのが、見識ある態度である。
所詮、彼女らがいくら頑張ったところで、日本社会はちっとも良くならないし、大して悪くもならない。
社会はもっと巨大な制度設計の下で動いており、本当に重要な問題は、彼女たちのような「ちっちゃなヒットラー」の仕掛ける、取るに足りないイタズラではなく、日本のさまざまな社会制度を、これからどう変えていけばいいのか、ということだからだ。
ところで、勝間和代に、その制度設計に参加する資格がないことは、言うまでもない。

平林都と勝間和代は「ちっちゃな全体主義者」である」への1件のフィードバック

  1. 格闘する21世紀アポリア

    2ch × 勝間和代 = 最強? 〜勝間和代・都市伝説〜 【後編】

     勝間和代の”価値観”は、その著書に如実に現れている。
     例えば「勝間和代のインディペンデントな生き方」(ディスカヴァー携書)を見てみよう。本人曰く、この著書は彼女の原点、彼女の著作のエッセンスが網羅されているという。彼女を知るうえでは最適な1冊と言えるだろう。
    《この本のキーワードは「インディ」、すなわち「インディペンデント」「自立」です。
    では、インディペンデントな生き方とは、具体的にどんなものなのか?
     1 年収六百万以上を稼ぎ、
     2 自慢できるパートナーがいて、
     3 年をとるほど、…

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