勝間和代を「キワモノ」にしてみせた『ビートたけしの新春ガチバトル』

勝間和代と香山リカが、2010/01/02(土)16時からTBS系『ビートたけしの新春ガチバトル』というテレビ番組で、「ガチバトル」ということで討論をしていた。

香山リカは、僕も読んだ近著『しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』(幻冬舎新書)の中で、勝間和代的な生き方を目指してはいけないと書いている。
そこでTBSがこの討論を、正月番組として企画したのだろう。
討論そのものは短く編集されていたが、勝間和代の議論は、相変わらずフェアではなかった。
勝間和代は、自分は女性のさまざまな生き方を認めており、その中の一部の生き方(年収600万円以上など)を目指すためのノウハウを書いているだけである、と論じていた。
この勝間和代の議論は、完全な「逃げ」である。
勝間和代自身は、じっさいには年収600万円以上の女性を目指す生き方に、完全にコミットしているにもかかわらず、自分はその生き方だけにコミットしているのではなく、女性の多様な生き方を認めていると、明らかに矛盾したことを言っている。
それに対して、香山リカは一貫して、その勝間和代の矛盾、というより、自己欺瞞を追求し、あくまで勝間和代がコミットしている「年収600万円以上」的な女性の生き方を目指しながらも失敗し、落ちこぼれてしまった女性の味方として振舞っていた。
香山リカは、自分自身は年収600万円以上ある、いわば「勝ち組」の女性であることを認めつつも、勝間和代が勧めるような生き方から落ちこぼれた人々を、擁護する姿勢を貫いており、議論の上で矛盾がない。
他方、勝間和代は、あらゆる自著で「勝ち組」女性になることを啓発しておきながら、他方では、自分は「勝ち組」以外の生き方を否定しているわけではないと、議論の上で完全に矛盾している。
なぜ勝間和代が議論の上で矛盾せざるを得ないかといえば、自分自身が「負け組」女性を切り捨てる非倫理的な存在であることを、認めたくないからである。
その意味で、勝間和代の議論の展開は、きわめて卑怯である。
ところが、二人の討論のビデオが終わったあと、老人ボケの始まっている田原総一郎は、勝間和代の肩を持った。
田原総一郎いわく、「香山リカのように、弱者の味方をするのはリスクが低い。勝間和代のように、あえて強者の味方をするのは、今の社会情勢の中ではリスクが高い。だから、あえて世間から叩かれるリスクのあることを発言している勝間和代を応援する」
田原総一郎も、焼きがまわったものだ。
たしかに香山リカのように、勝間和代的生き方を目指して落ちこぼれた人々を擁護する議論は、世間の同情を買いやすく、リスクが低い。
しかし、香山リカが、どれだけこのリスクの低い議論をくり返しても、年収600万円以上の女性が増える世の中にならない。

なぜ勝間和代が、あらゆる著書で懸命に女性たちを励ましても、ごく一部の女性しか年収600万円以上の成功者になれないのか。
答えは簡単。ゼロ成長の日本経済は、ゼロサムゲームだからだ。
かんたんに言えば、ゼロサムゲームにおいては、年収600万円以上の女性が10人増えれば、必ず、それ以上の人数の女性が経済的に困窮するのである。
勝間和代の自己啓発本にしたがうということは、他の誰かを蹴落とすということだ。
ところが勝間和代は、このゼロ成長の日本経済がゼロサムゲームであり、自分の勧めている年収600万円以上の女性を目指す生き方が、必然的に、それ以上の人数の経済弱者を作り出すことを、見て見ないフリをしている。意図的に看過している。
香山リカは、勝間和代の議論の、この偽善性、欺瞞を批判しているのだ。
ところが、すでに痴呆の始まっている田原総一郎は、香山リカの批判の本質的な射程を、全く理解していないので、勝間和代の方がエラいという、単純素朴な結論を出してしまう。
そして勝間和代も、自分の振る舞いや、著書の内容が、所詮は単なるゼロサムゲームの「勝ち馬に乗る」議論であることに無自覚なのである。
香山リカは、勝間和代の議論の本質的な自己欺瞞を突いているのに、勝間和代はそのことにまったく気づいていない。(もちろんボケの始まっている田原総一郎も気づいていない)
一つ、思考実験をしてみれば、すぐに勝間和代の欺瞞性がわかる。
日本の女性全員が、勝間和代を目指して、年収600万円以上を目指して頑張れば、現状のゼロサムゲームの日本社会を、ますます「勝ち組」と「負け組」の格差が激しい社会に固定するだけに終わる。
すでに、小泉・竹中的な誤ったネオリベ政策が失敗であったことが、すでに明白な2010年において、勝間和代の議論は、小泉・竹中的な誤ったネオリベ政策の単なる追認であり、完全に時代錯誤なのだ。
それに対して香山リカは、特定の目標にしがみつかない生き方を勧めることで、ゼロサムゲームの日本社会に、経済水準の低い者どうしの、精神的な相互扶助の考え方、コミュニティー指向の考え方を持ち込むことで、今の日本社会そのものを変革する方向性を示している。
だから勝間和代は、「勝ち組」が寄付という形で「負け組」に再配分すればよいという、能天気な議論を平気で展開する。
残念ながら「勝ち組」日本人のほとんどは、アングロサクソンのような、プロテスタントの宗教的背景がないので、自らすすんで「負け組」に恵んでやるようなことはしない。本気で再配分するなら、日本においては、残念ながら所得税や相続税で、国家を通じて再配分するしかない。
勝間和代はそういった、日本的文脈についても、驚くほど鈍感で無自覚である。なぜそれほど鈍感で無自覚なのかと言えば、自分自身が「勝ち組」であることに無自覚だからだ。
勝間和代は、「私は自分が『勝ち組』であることを自覚している」と言えば言うほど、実際の振る舞いや著書の内容との矛盾が際立つ。
分かりやすく言えば、「何だかんだ言って、結局、自分がいちばん儲けてるんじゃん」ということだ。
以上。このゼロ成長時代の日本においては、勝間和代の発言や著書に存在価値はない。
「カツマー」と呼ばれる彼女のフォロワーは、自分で頭を使って考えているわけではなく、勝間和代というブランドに惹かれているだけである。
勝間和代も、エルメスやシャネルと同じ、単なるブランドであり、現状の日本社会を肯定するものに過ぎず、放っておいても、そのうち飽きられて、梅田望夫と同じ「キワモノ」の運命をたどるだろう。
そうなったときに、「カツマー」は初めて、香山リカの勝間和代批判の射程が、いかに長く、深いものであったかに気づくのだ。まぁ、気づいたときには、もう「うつ病」になってるかもしれないけど。

勝間和代を「キワモノ」にしてみせた『ビートたけしの新春ガチバトル』」への1件のフィードバック

  1. virtues of life

    「努力が趣味なんです」くらいの余裕を持って、自慢も強要もせず、自分流に励むのが、心の健康にも体の健康にもよいばかりか、人生の選択肢も広がるのではないか。

     勝間和代vs香山リカのバトルが巷で噂になっているのを耳にし、あの勝間さんにバトルを挑むのはどんな理屈なのかと若干を興味を持ちつつ、しっかりと主張を聞けてなかったのですが、正月の特番で目にすることができました。端的に言うと、どちらの論理もあまりに極端で女同士の醜い争いに見えてしまいます。勝間和代は「負けるのには理由がある」vs香山リカは「人生は負けることの方が多い」と、論点がずれているんですよね。香山さんはHBSに「人生をビジネスの論理で考える愚」と題し、以下のように述べています。
    何が正解なのか…

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