平林都の「接遇道」は自殺率の高い社会をつくる

平林都氏についてもう少し書かせて欲しい。『エチカの鏡』に登場したマナー研修講師・接遇研修講師である平林都氏のような存在が、どれだけ世の中をゆがめるか。

先日、近所の大きな郵便局に用事があって出かけた。
大きな郵便局の一階部分って、どうしてどこも天井があんなに高いのか知らないが、その天井に響き渡るほどの怒号が、いきなり聞こえてきた。
「あんたがそうしろっていうから、こっちはその通りにちゃんと書いてきたんでしょうが!何か俺に落ち度があったのか!?...じゃあ、説明のところに最初からそう書いておけよ!」
当然、窓口の郵便局員は、ただただ平謝りである。
郵便局の一階全体に響きわたるほど怒鳴っているのは、普通のスーツ姿にコートを羽織った中年のサラリーマン。オフィス街のど真ん中にある郵便局なので、おそらく近所の企業の男性会社員だろう。
僕だけではなくて、他のお客さんも、ちらちらとこの怒鳴り散らしているサラリーマンを見ていた。
何があったのか知らないが、郵便局員だって人の子なんだから、ミスの一つや二つぐらいするだろう。いったいそのミスが、フロアに怒号を響き渡らせるほどのミスなのか?
ひと一人死ぬくらいのミスなら、それくらい感情的になってもいいだろう。
しかし、耳をダンボにして聞いていると、局員の指示通りに会社で郵便物をまとめて用意してきたのに、窓口で記入漏れを指摘されたようなのだ。それで、「だったら説明書に最初から書いておけ!」と怒鳴っているらしい。
『エチカの鏡』に登場したような接遇研修講師の存在は、こういう「モンスター・カスタマー」や「モンスター・ペアレント」、「クレーマー」のたぐいを、社会に増殖させることに貢献していると、僕は考えている。
責任感をもって仕事をするのは、社会人として当然のことだ。
だが、お客様は神様ではない。人間である。接遇担当社員だって、人間である。
お互いが完璧でない人間として、ときにはミスもする人間として、許し合うような、そういう余裕のある社会を作る必要があると、僕は考えている。
なぜなら、人命にかかわるようなミスは別格として、ただの一つのミスも許さないような社会を作ると、結果的に、お互いのミスの指摘の終わりなき応酬合戦の社会になる。
そうすると、ミスの指摘の応酬合戦に負けた方は、心が病んでいく。大抵そういう人は、いつも言い負かされる立場になってしまうからだ。
世の中には、口の達者な人と、そうでない人がいて、『エチカの鏡』に登場した接遇講師のように「接遇至上主義」の世の中を一生懸命作ってしまうと、必ず口下手な人たちが、つねに言い負かされる立場に追い詰められ、鬱屈した怒りを心にためこむ。
あの郵便局の窓口職員のように。
そしてあの接遇講師が、仮に郵便局の経営者から接遇研修の依頼を受けたら、おそらく、あの郵便局の窓口職員の接遇がなっていないと、叱りつけるに違いない。
すると、世の中の人間は、自分が「客」であるときには暴君となり、自分が「接遇担当」であるときには奴隷になる。
あの郵便局員も、あの日、怒号を受けたうっぷんを、今度は自分が「客」である場面で、思う存分晴らすに違いないのだ。
たぶん読者の皆さんの会社にも、そういう人はいると思う。
納入先業者(ベンダー)に対して、やたらと厳しい人物。ベンダーの作ってきた資料の、ちょっとしたミスをほじくり返して、責め、なじり、嫌味を言い続けるタイプの社員が。
マナー研修講師、接遇研修講師のような人物の存在は、そういう、人々がお互いのミスに思う存分クレームを付け合うような社会を助長するのだ。
一切の妥協を許さない社会、人間が不完全な存在であることを認めない社会、コミュニケーションに一分の隙も余裕もない社会。
そういった、ギスギスした社会を作り出すことに、接遇研修講師のような人は貢献している。
ただでさえ日本のサービス業は、欧米諸国と比べると過剰サービスだと言われている。それをさらに推し進めることが、倫理的に正しいことなのか、マナー研修講師は、一人の人間として、よく考えるべきだ。
僕は、接遇研修講師のやっているような「接遇道」が、日本の社会からますます余裕をなくし、「言われ損」の弱者を大量生産し、その弱者のうちの何パーセントかが、職を失い、うつ病になり、追い詰められ、自殺すると考えている。
『エチカの鏡』に登場した接遇研修講師ご自身は、もちろん勝者である。接遇の勝者だし、所詮は、資本主義社会における「経営」側の立場の人間だ。
そして、「経営」側の立場に立って、「労働者」を「接遇至上主義」に「洗脳」する仕事をしている。
その「洗脳」の現場には、どこかで見たような感動があり、涙があり、達成感があり、充実感があるが、もちろんこれらは、効率よく「洗脳」するための手段にすぎない。
例えば、レニ・リーフェンシュタールの美しいオリンピック映画が、ナチス支配下のドイツ国民に感動を与えたのと同じように。
あの接遇研修講師ご自身は、自分の仕事が、ある人たちにとって非常に生きづらい世の中を作り出していることに、おそらく気づいていない。
あるいは、気づいているにもかかわらず、自分が生活していくためには、追い詰められる「接遇弱者」が、何パーセントか出て来て、生活苦に陥るのも止むを得ないと考えているのだろう。
今の日本に必要なのは、あの接遇研修講師が作り出そうとしているような社会とは、正反対の社会である。
お互いの欠点を許し合い、補い合い、協力し合える余裕のある社会である。
さもないと、日本の社会全体が、お互いの落ち度の突き合い、非難の応酬合戦によって、ムダに疲弊していく。
先進諸国で突出しているサービス業の労働時間も減らないし、有給休暇や育児休暇取得率も上がらない。結果として出生率も上がらないし、自殺率も減らない。
『エチカの鏡』に登場した接遇研修講師・平林都のような人々は、自分がやっている仕事が、マスコミに面白おかしく取り上げられることによる、社会に対する影響力について、考え直すべきである。