鬼束ちひろインタビュー『BARFOUT!』2007/11号批評(4)

鬼束ちひろがどうやって復活できたのかが、いちばんよくわかる、幻冬舎の雑誌『BARFOUT!』2007年11月号(Volume 147)。第1特集『復活の日~RISE, FALL and RETURN!!!』鬼束ちひろ×岡村靖幸。

前回にひきつづき、鬼束ちひろの単独インタビューの後半部分をレビューしてみたい。今回はp.022~の真ん中あたりから。

barf:仕事してると人と接するけど、してない時は人とは会わなくて。そっちの方が楽じゃ?
鬼束:んー、楽な時と楽じゃない時がある。なんか、会ってる時が楽しい時もあるから。
barf:休んでた時のように、あまり人と会ってない時に書く曲と、そうじゃない時に書くのって、仕上がりが違うのかな?って思って。
鬼束:……違うかも。
barf:相手に容赦ない歌詞とかあるけど、実像のモデルとかいる?
鬼束:それはしない。
barf:もう1人の自分にツッコんでる?
鬼束:うん。多重人格的なのかも。

やっぱり、鬼束ちひろの歌詞に登場する「あなた」は、もう1人の自分を指していることがあるようだ。
先日、鬼束ちひろの新譜『DOROTHY』が、決してシングルの寄せ集めプラス・アルファではなく、一種のトータル・コンセプトアルバムであることを、収録曲の順序を読み込んでみることで証明してみた。
その中で、過去の「私」と今の「私」、語る「私」と語られる「私」など、多重人格的な歌詞があることを指摘した。たとえば『ストーリーテラー』の歌詞も、実は自分自身に呼びかけているのでは?という感じで。
このインタビューで、鬼束ちひろ自身がこの解釈が、どうやら当たっていそうなことがわかってよかった。
インタビュアーの山崎二郎氏の質問は鋭い!

barf:前とツッコミ方が違う感じするの。
鬼束:でも、常に自分とは向き合ってますよ。
barf:向き合い過ぎて(笑)。
鬼束:(笑)確かに、もっと距離を置いて見る――客観視するのって必要だなって分かってきた。曲を残していくためには。自分で自分を見る距離をもう少し広げないと、残せるような曲は書けないって思った。
barf:「残る曲」の定義は?
鬼束:結果論かもしれないですね。でも残るためには、曲作りは緻密にやっとく、というか。天然なんだけど、無意識の中の意識でやるっていう。
barf:ゾーンに入ってる状態と同じってこと?
鬼束:うん。「everyhome」なんか、完璧に入ってましたよ。3日間かかりましたからね。もう、どっぷり入り過ぎた。
barf:他にもそういう曲ってあった?
鬼束:ない。
barf:やっぱり、「everyhome」だけ別格なんだよね。僕としては、「鬼束ちひろの代表曲は?」って訊かれたら、「月光」じゃなくてこの曲を推したくて。この曲を書けただけでも、休んだ意味ってあると思うし。
鬼束:うん。
(2007/09/18 代官山にて)

「向き合い過ぎて」の後の2人の笑いは、向き合い過ぎた結果、活動休止し、自殺未遂までするハメになった、という含みだろう。
しかし、「残る曲」の定義を聞かれて、結果論かもしれないと答える鬼束ちひろは、やはり頭の良い人だと思った。
では、項を改めて、いろいろなインタビューから分かる鬼束ちひろの自意識を、柴田淳の自意識と比較しながら論じてみたい。