鬼束ちひろ『DOROTHY』レビュー(5)物語分析・後半

(鬼束ちひろ『DOROTHY』レビュー4回目からつづく)
2009/10/28発売の鬼束ちひろ2年ぶりのニューアルバム『DOROHTY』の物語分析の続きだ。

7曲目の『帰り路をなくして』は、6曲目の『I Pass By』の最後で、夢の世界の中で物語を話すことをやめて(We don’t speak anymore)、夢の世界からの帰り路をさがす曲になる。
しかしタイトルですでに、「私」はその帰り路を見失っている。そして2007年の「everyhome」で予告されていたように、家に帰るまでもなく、あらゆる場所が帰るべき家になりうる。
『帰り路をなくして』という曲は、あらためて、夢の世界から家へもどる帰り路など探す必要はなかったのだ、ということに気付き、途方に暮れている状態を描いている。
なので、この曲の歌詞には「私」という一人称は出てこない。「自分」という言葉が出てくるだけだ。この曲は、特定の「私」についてではなく、すべての人に当てはまる状態を描いているからだ。
どんな人でも、いま自分が置かれている夢の世界のような場所から抜け出す「帰り路」があると思いこんでいる。しかし、そもそもどこかへ「帰る」必要があるのか?途方にくれながらも、もう一度考え直してみる価値があるのではないか。
そんなことを『帰り路をなくして』という曲の歌詞は問いかけているように思える。
そしてそれに対する、「私」こと鬼束ちひろとしての一つの回答が、次の8曲目『Losing a distance』で示されている。
それは、夢の世界であったはずの「ここ」を、自分自身の考え方を変えることで、帰るべき場所にしてしまえるかもしれない、ということだ。
「ここ」には「心を捨ててもいいくらいに/とても美しい人」がいる。そんな「美しい人」の側にいること自体が、実は「ここ」こそが帰るべき場所だったことの証拠なのではないか。
「宝石みたいな貴方の目の前にいる奇跡」とは、「美しい人」に見つめられることで、「私」が帰るべき家との距離を、まるで初めからなかったもののように失うことを意味している。
過去の「私」だったら、はるか長い道のりを歩き続けなければたどり着けなかった場所が、「美しい人」の側にいるだけで、その「宝石みたいな貴方の目の前にいる」だけで、一瞬にして「ここ」になってしまう。一瞬にしてその長い長い距離を失ってしまう。
「私」にとっての長くて遠い「帰り路」の距離は、「貴方」に見つめられることで失われ、いつの間にか「ここ」がすでに、「私」の帰るべき場所になっていた。
鬼束ちひろは『Losing a distance』の歌詞で、帰り路をなくした人々に対して、そんなヒントを与えてくれているのではないか。
そのことに気づけば、夢の世界からはすでに目覚めている。その夢の世界から、「私」が見つけた「ここ」という場所の境界線を横切るときに、聴こえてくるメロディーがある。
でも、「私」はすでに「ここ」という場所を見つけてしまっているので、夢の世界にいたときの想い出として鳴り響くそのメロディーは、いまの「私」にはもう聴こえない。
それを書いているのが9曲目の『ラストメロディー』である。
『ラストメロディー』がなぜ最後のメロディーなのか。それは、「貴方」という場所を見つけた「私」にとっては、すでに過ぎ去ってしまった夢の世界の名残りだからだ。
もう境界線を横切ってしまった「私」の背中に、かすかな記憶として聴こえてくるけれども、いまはもう聴こえなくなってしまったメロディー。
消えてゆくことで、実は聴こえていたのだということ分かる、最後の言葉。それが『ラストメロディー』だ。
気づいた時には、もう聴こえなくなっている最後の言葉。気づいた時には、もう失われている美しい夢の世界の記憶。そんなものに対して、「私」は惜別の涙をうかべないわけにはいかないだろう。
本当の意味で、最後の記憶、最後の言葉、最後のメロディーというのは、それらが思い出せなくなってから、聴こえなくなってから、その存在に気づく、悲しいものなのだ。
でも、悲しんだところで仕方ない。「私」はすでに「ここ」に目覚めている。
自分の考え方や見方を変えることで、「ここ」がすでに帰るべき家だったことに気づき、夢の世界からすでに目覚めていることに気づいている。
その気づきの瞬間は、夢の世界という、途方もなく長く感じられる過去と、これから始まる、いつ終わるとも知れない未来との接点にある境界線だ。
過去は流れ去り、未来はまだ始まっていない。なので、その接点にいて境界線をまたいだ瞬間の「私」にとって、時間はまるで止まってしまったかのように感じられる。
時間が止まることで、世界は永遠にそのままでいるかのように感じられる。
それでも「私」は境界線を横切って、前へ進むという決意のようなものを、心の中に秘かに燃やしている。
それを象徴するのが10曲目の『蛍』だ。
『蛍』という曲において、時間は止まっている。流れ去った過去と、まだ始まらない未来の間のこの「一瞬」において、時間は止まっている。
でも、時間が止まっているからといって、「私」の中で何も起こっていないわけではない。
「ここ」が帰るべき場所だと気づかせてくれた「貴方」の代わりになれるような人は他にはいない。つまり「誰も貴方になれない事を/知ってしまう」、その「一瞬」は「私」にとって「永遠」と呼ぶべきものだ。
だから「その一瞬が永遠」であり、「その一瞬が何もかも」であることを教えてくれたのは「貴方」なのだ。
しかし、時間はやがて動き出す。
動き出した時間は、その「一瞬」と同じように、流れ去った過去と、まだ始まらない未来の間にある見えない点のような「一瞬」だ。
これから時間が動き出せば、「私」にはそのつど、数えきれない「一瞬」がつぎつぎと訪れる。
そして、これから訪れる全ての「一瞬」は、誰も貴方の代わりになれない事、「貴方」が「私」にとってかけがえのない存在であることを「私」が知ってしまった、あの「永遠」の「一瞬」に等しい価値をもっている。
「全てのときは一瞬だと/貴方は答えてくれたひと/貴方は教えてくれたひと」という最後のフレーズは、そのことを意味している。
ここまでこの『DOROTHY』というアルバムの物語を追ってくれば、最後の『VENUS』が何を意味しているかはお分かりだろう。
ローマ神話のヴィーナス(ギリシア神話ではアフロディーテと呼ぶ)は、普通は、美と女性性の象徴とされる。
『Castle Imitation』の歌詞でも「私の怒りを吸い上げる」もの、つまりコントロールできない「私」の感情をしずめる超越的な存在として描かれている。
もちろん『DOROTHY』の11曲目の『VENUS』も、愛や美、女性性の象徴になっているが、たぶん鬼束ちひろは、ボッティチェルリなど、多くの画家がテーマにしている『ヴィーナスの誕生』からも着想を得ているはずだ。
つまり『VENUS』は「私」の新たな誕生も意味している。
ただし『VENUS』の歌詞では、アルバム『DOROTHY』にここまで登場してきた「貴方」という存在について、一つの謎が解き明かされているように思える。
「私はひとりで/この地に立つ事を選ぶだろう」
「私はひとりで/愛を連れる事を選ぶだろう」
ヴィーナスが象徴する愛を連れて「私」はあくまで「ひとりで」、これから始める未来を、つまり「どこへでも繋がる道を」「繋がる意味を」「繋がる光を」歩むことを選んでいるのだ。
では、アルバムの中にここまで登場した「貴方」とは一体誰だったのか?
これも僕の個人的な解釈に過ぎないが、その「貴方」とは、過去の「私」ではないかと思う。過去の「私」には、過去の「私」が愛したすべての物や人も含まれると考えていい。
「貴方」は「心を捨ててもいいくらいに/とても美しい人」であったり、「宝石みたいな」目で「私」を見つめていたりした。
その「貴方」のおかげで、「私」は過去の夢の世界から目覚め、再び誕生することで、まだ始まらない未来を歩み始めることが出来たのだが、それは他ならぬ、過去の「私」だったのだ。
「私」の醜さも、美しさも、すべてを「宝石みたいな」澄んだ目で奥底まで見通し、そして愛せるのは、結局「私」自身しかいない。
「私」を目覚めさせ、再び誕生させることができるのも、「私」自身しかいない。
このテーマは『LAS VEGAS』の『Angelina』で、すでに予告されていたが、鬼束ちひろは、自分の音楽のシナリオ全体を、より明るい方向へ(On A Brighter Scenario)書き直すにあたっても、やはり「私」を信じるしかなかった。
ただし、『LAS VEGAS』よりも数年前にすでに書かれていたという『Angelina』と『VENUS』との決定的な違いは、的確な言葉で表現するのは難しいが、「開け」や「開放」といったようなものだ。
鬼束ちひろの自己愛は、本来、「私」をどこまでも開けている未来へ向かって押し出すためにあったはずだが、どこかでボタンをかけ違えてしまっていた。
かつての鬼束ちひろの自己愛は、この世界すべてを、その内側に包みこもうという、そもそも不可能なことを試みていたのかもしれない。
過去の「私」は、この世界のすべては「私」が「私」の心の中に自分で作り出したものだ、あるいは、作り出せるものだと思い込んでいた。
このアルバム『DOROTHY』の前半で描かれる夢の世界は、そういった過去の「私」の考え方に対する反省や批判になっている。
哲学史的にいえば、独我論的世界観に対する批判になっている。
それに対して、『DOROTHY』の後半は、そういった「世界のすべては私が作り出したもの」という世界観を180度ひっくり返して、どこへでも繋がる世界に向き合う「私」という世界観に転換している。
その転換をするための方法論として、鬼束ちひろがとったのは、まず、いったん話すのを止めること(『I Pass By』)である。
次に、過去の「私」を「貴方」と呼び直して、「私」が過去の「私」との距離を失い、溺れてしまっていることを自覚すること(『Losing a distance』)だ。
その自覚ができさえすれば、「私」は、過去の「私」の夢の世界、哲学的に言えば独我論的世界観から、目覚めることができる。でも、閉じた自己愛と決別するのは、涙があふれるほど悲しいことである(『ラストメロディー』)。
それでも、過去の「私」と決別した新しい「私」は、過去の「私」に対して「貴方」と呼びかけることで、ちゃんと距離を置くことができるようになっている。しかも、まるで過去の「私」が他人であるかのように、感謝の言葉さえかけることができる(『蛍』)。
ただし『蛍』で忘れてはいけないのは、それでも「誰も貴方になれない事」である。つまり、誰も鬼束ちひろの代わりになれないということを、いちばんよく知っているのは、鬼束ちひろ自身なのだ。
こうして過去の「私」を「貴方」と呼ぶことで、完全に相対化し、客観視することができるようになった、いまの「私」は、高らかに宣言することができる。
「私はひとりで/この地に立つ事を選ぶだろう」
「私はひとりで/愛を連れる事を選ぶだろう」
この自己愛は、もう以前のような、全世界を自分の内部に閉じ込めようとするような、閉じた自己愛ではない。
「両腕を広げて/心を燃やして」「どこへでも繋がる道を」「繋がる意味を」「繋がる光を」追い求めていく、限りなく開放された、新しい自己愛なのである。
(最後のまとめへ)
※この鬼束ちひろのアルバム『DOROTHY』のレビューは、以下のように全6回の連載になっています。ぜひ通してお読みください。
「鬼束ちひろ『DOROTHY』レビュー(1)その形而上学的構想について」
「鬼束ちひろ『DOROTHY』レビュー(2)アレンジの劇的な変化」
「鬼束ちひろ『DOROTHY』レビュー(3)クレジットを熟読する」
「鬼束ちひろ『DOROTHY』レビュー(4)物語分析・前半」
「鬼束ちひろ『DOROTHY』レビュー(5)物語分析・後半」
「鬼束ちひろ『DOROTHY』レビュー(6)全体構成のまとめ」