柴田淳『ゴーストライター』レビュー(3)不可能の果てに

柴田淳『ゴーストライター』(2009/11/04発売の7thアルバム)のレビュー3回目。

前回は、天才的なメロディーが随所に輝くこのアルバムなのに、歌詞について何故レビューする気が萎えたか、その理由を中心に書いた。
そのせいで、各曲の歌詞について全く触れなかったので、今回はちゃんとレビューしたい。
最初に当り前のことを書いておく。このレビューには、「こうすればもっと売れる」「こうすればもっと良くなる」という意図は全くない。単に個人的な感想を書いているだけだ。
また、もう一つ当り前のことを書いておく。僕が『ゴーストライター』の歌詞のレビューを書くのは、その価値があるからだ。
ほとんどのJ-POPの歌詞が希望や肯定を素朴に書いているだけか、完全にクズなのに対して、柴田淳は絶望や不可能性といった、一般的にはネガティブな価値観を、ちゃんと歌詞に書き込んでいる。
前置きはこれくらいにして、『ゴーストライター』の各曲の歌詞のレビュー。(シングルで先行発売されている『Love Letter』は省略)
結論から言えば、『ゴーストライター』の中で詳細にレビューすべきは1曲目の『救世主』と、前回問題にした『うちうのほうそく』だけで、その他の曲はかんたんに触れることにする。
なので、まず「その他」から見てみよう。
■『透明光速で会いに行く』(作詞作曲:柴田淳)について
『透明光速で会いに行く』の歌詞は、過度に理想化された相手に対する、素朴で一直線な恋愛感情を描いている。なにしろ光速でなければたどり着けない相手なのだから、恋愛対象を理想化しすぎだ。
もちろん、恋愛の不可能性はラブソングの重要なテーマで、その比喩として「透明光速」というフレーズは美しい。
■『蝶』(作詞作曲:柴田淳)について
『蝶』の歌詞は、無残に捨てられることに生きる意味を見出す、プライドの高い女性を描いている。(生物学的に女性かどうかは別として)
プライドが高いと言える理由は、「忘れてあげるわよ」という意思を、自分を捨てた相手にあえて伝えず、「忘れてあげた私はすごい」と自分を慰めることで完結しているからだ。
自分を傷つけた人物とのコミュニケーションを拒否し、自分で自分を納得させ、自己完結するのは、自分のプライドを傷つけないための手段だ。
仮に「忘れてあげるわよ」という捨て台詞を、実際に相手に投げつけたなら、「誰も忘れるな、なんて頼んでねえよ!」と反論され、余計に傷つくだけだ。
この曲は、自尊心と恋愛が両立不可能であることを、書いているのかもしれない。
■『雨』(作詞作曲:柴田淳)について
『雨』の歌詞は、決定的な一歩を踏み出せないでいる、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ君タイプの性格を描いている。
この曲は、理想や幸福を手に入れることの不可能性が主題だ。
理想的な幸福は、手に入らないからこそ理想なのである。この矛盾は、近代文学においては、かなり使い古された主題である。なので、これ以上書くべきことはない。
■『宿り木』(作詞作曲:柴田淳)について
『宿り木』の歌詞は、恋愛依存症を比喩的に描写している。
自己と他者の区別がなくなる一体感は、しばしば恋愛の究極の理想として描かれる。
しかし、そもそも恋愛はお互いに完全に理解しあうことの不可能性、お互いに出逢うことの偶然性の上にしか成立しない。
したがって、完全な一体感や同一化は、単なる幻想である。
これも恋愛の不可能性の一つの側面だ。それでも、その不可能なものの実在を信じたいという、非合理的な感情が、この曲の歌詞の柱になっている。
■『君にしかわからない歌』(作詞作曲:柴田淳)について
『君にしかわからない歌』の歌詞は、「歌手という職業と、幸福な恋愛の両立は不可能だ」という考えを持っている歌手を描いている。
もし運命の人に出会ってしまったら、この歌手は歌い続ける動機を失ってしまうようなのだ。
言い換えれば、恋愛の不可能性こそが、この歌手が歌手であることの必要条件になっている。
だからこの歌手は、上述の他の曲で、恋愛の不可能性について語っているのだとも言える。
ただ、当然のことながら、一般的に、歌手と幸福な恋愛が両立しないということはない。
歌い続けるための動機は、必ずしも自分以外の誰か(=他者)を愛することでなくてもよい。自分自身を愛する自己愛であっても、歌い続けるための動機として十分だ。
自分の苦しみや孤独は、自分だけが愛せるものであって、他の誰にも愛することはできない。そういった形の自己愛も、歌い続けるための動機になりうる。
しかし『君にしかわからない歌』に登場する歌い手は、歌い続けるために、恋愛の不可能性を必要としている。
■『幸福な人生』(作詞作曲:柴田淳)について
『幸福な人生』の歌詞は、人間が孤独から逃れることのニセの可能性を描いている。
人間は孤独から逃れるために、恋愛において誰かを愛し、誰かに愛されようとする。
しかし、人間どうしが完全に理解しあうことが本質的に不可能である以上、恋愛によって孤独を癒すことも不可能である。
この『幸福な人生』の歌詞は、「求める愛」から「与える愛」へ転換することで、孤独から逃れられるかもしれない、という希望を書いている。
しかし、「求める愛」であろうと「与える愛」であろうと、人間どうしが完全に理解し合うことが不可能である事実は解消されない。言い換えれば、人間は永遠に孤独から逃れられない。
「求めない」と決断すれば幸せを得られるはず、というのは、ニセの希望なのだ。
以上で「その他」の各曲のレビューは終わった。
『幸福な人生』以外の曲の歌詞が、すべて何らかの不可能性を主題にしているのに対し、『幸福な人生』だけが、「与える愛」が不可能性から脱する糸口になるかもしれないという、ニセの希望を主題にしている。
そういう曲がアルバム最後に来ているのは、やや皮肉だ。
もし作詞者が、ニセの希望だと分かった上でこの詞を書いたのなら、この皮肉は、作詞者からリスナーに対する皮肉である。
そうではなく、作詞者自身がニセの希望と分からずに書いているなら、作詞者の自分自身に対する皮肉になっている。この歌詞を聴いた人が、その皮肉の悲しさを感じとれるかどうかにかかわらず…。
こういった皮肉も、柴田淳の書く歌詞の、最大の魅力の一つであることには違いない。
さて、残りの重要な2曲である。
■『うちうのほうそく』(作詞作曲:柴田淳)について
『うちうのほうそく』の歌詞については、前回のレビューで、「それは宇宙の法則ではなく、文化的性差だ」と、身も蓋もないツッコミを入れた。
そのツッコミは、以下のような意味で書いた。
宇宙の法則と書いてしまうと、神様などの超越的な存在が決めた法則で、人間には責任がないように聞こえる。
しかし、男性が寒色系、女性が暖色系、高級レストランの女性用メニューに値段が書いていないことなどなどは、れっきとした、人間の作った慣習であり、もっと言えば、生物学的な性別にもとづく固定観念だ。
仮病をつかって相手に甘えるのも、女性に対して母性を求める、典型的な「女らしさ」の固定観念である。
女性がヒールをはいて脚を美しく見せ、男性がシークレットシューズをはいて背を高く見せるという文化も、女性は美しくなければならない、男性はたくましくなければならない、という、人間が作り出した固定観念にすぎない。
『うちうのほうそく』の歌詞は、「女らしさ」「男らしさ」という固定観念が、人間ではない超越的な存在が決めた、普遍的な法則であるかのように歌っている点で、完全なウソっぱちなのだ。
ましてそれを「素晴らしくて神秘的」「美しくて奇跡的」だと称賛しているのだから、大いに問題だ。
こういった「女らしさ」「男らしさ」を当り前だと思ったり、素晴らしいと思ったりする人が、世の中の大多数を占めているのは事実だ。
しかし、だからこそ、例えば、性同一性障害の人たちや、同性愛の人たちは、マイノリティとして生きづらい思いをしなければいけない。
性的マイノリティの人たちにも、このアルバムの「その他」の曲に書かれているような、幸福の不可能性や、恋愛の不可能性を追求する権利がある。
だが、それを妨げているのが、他でもない、『うちうのほうそく』の歌詞に書かれているような、「女らしさ」「男らしさ」という固定観念を「素晴らしい」とする考え方なのだ。
この曲で宇宙の法則扱いされていることは、人間が長年にわたって作り上げてきた、陳腐な固定観念に過ぎないことを忘れてはいけない。
そういうわけで、この『うちうのほうそく』という曲の歌詞は、作詞した本人の意図にかかわらず、とても政治的なメッセージを持っていて、politically incorrect ギリギリの線をいっている。
■『救世主』(作詞作曲:柴田淳)について
最後は『救世主』の歌詞について。
あえて言えば、このアルバムの中で、性別についての陳腐な固定観念や、言い古された幸福の不可能性を超えた、新しい「何ものか」に触れているのは、この曲の歌詞だけだ。
その「何ものか」を言葉で表現するのは難しいが、美しい絶望のようなものかもしれない。
「傷」という単語が3回出てきて、それは「私」の体の表面にあると同時に、心の中にもある、癒えない、と同時に、言えない(言語化不可能な)「傷」である。
なので歌詞カードでは「イエナイ」とカタカナで表記されている。
その他に登場するのは、「私」と「あなた」と「何か」と「誰か」だ。
「あなた」という存在は、「私」があえて選んだ選択肢として、はっきり名指されている。
しかし、その「あなた」という選択肢も、暗いトンネルを抜け出せるならどこでも良かった、「ここ」以外ならどこでも良かったという、一種の逃げ場所でしかない。
そもそも「私」は、癒えないし、言語化できない「傷」を負っているのだから、いくら笑っても、救われることは決してない。
ただ、ニセの笑いであっても、救われたフリをすることで、「あなた」は救われる、と書いてある。
「あなた」は「私」が選んだ唯一の逃げ場であり、「私」が自分を偽るという演技が成立する、特権的な場所なのだ。
この「あなた」は、例えば柴田淳のような人にとっては、音楽に当たるのではないか。
こういった「私」と「あなた」の関係とって、「何か」という存在は、周囲の雑音、わずらわしい雑事に過ぎない。
そして「誰か」という存在も、「私」の癒えない「傷」を癒してあげると、見え透いたウソをついたり、「私」に必要以上の要求をしてくるような、目障りな人々に過ぎない。
「現れては消える」日常のわずらわしい雑事や、「笑ってと」無理強いをしてくるわずらわしい人たちが、作り出している「暗い道」。
そこから抜け出した先にも、結局は、真の救済は存在しない。
なぜなら、真の救済が、「どこでもよかった」という逃避によって簡単に手に入るなら、そもそも人は「傷」に苦しみながら生きることなどないはずだからだ。
もちろん、その抜け出した先にある、「私」と「あなた」の関係においても、真の救済は存在しない。
ただ、少なくとも、「私」が「救われたと笑ったら/あなたはまた 私に救われる」という、”救い合いごっこ”のような関係は成立する。
たとえそれがニセの救いであっても、”救い合いごっこ”というコミュニケーションが成立する特権的な場所が、そこにはある。
そもそも、真の救済などというものは手に入らない。
だからこそ、「私」と「あなた」の間で、「笑い」を通じた”救済ごっこ”が成立する場所は、たとえニセの救済であっても、人が手に入れることのできる、最良のものなのではないか。
真の救済を得ることは、人が生きている限り不可能だが、”救いのゲーム”のようなものを、「私」と「あなた」の間で続けていくことで、人は、完璧ではなくとも、最良のものを手に入れることができる。
『救世主』の歌詞は、そのようにして、人間が不可能性の果てに、辛うじて最良のものを手に入れることができる、そんな場所を示している。
(レビューおしまい)