柴田淳『ゴーストライター』レビュー(2)歌詞と性差

柴田淳『ゴーストライター』(2009/11/04発売の7thアルバム)のレビュー2回目。

前回の「柴田淳7thアルバム『ゴーストライター』レビュー(1)天才的メロディー」では、柴田淳の書く歌詞に興味はないと言い切ってしまった。
曲先のアーティストに対する、僕としては最大の賛辞なんだけど、本人が凹むといけないので、その理由と、ちょっとは歌詞についても触れる。
(※なお、柴田淳の歌詞が、そのへんのJ-POPのクズみたいな歌詞と比較して、どれだけ素晴らしいかは『柴田淳の歌詞における「いま」の宙吊りについて』に書いてあるので、お忘れなく)
このアルバムを聴いて、このアルバムの歌詞について真剣にレビューする気が全くなくなったのは、「うちうのほうそく」という曲の歌詞が原因なのだ。歌詞の一部を引用する。
「赤のTシャツ 青のTシャツ 誰かがくれたら
きみが赤 ぼくが青 なぜか決まってる」
これは決して宇宙の法則ではない。
単なる文化的性差(ジェンダー)だ。
前にも書いたが、柴田淳という人は、文化的性差については驚くほど保守的である。男は男らしく、女は女らしくという、時代錯誤の考え方を素直に体現している。
一青窈が、先日書いたようにトランスジェンダーの人たちと親交があったり、中島美嘉がどこかで「男らしさ、女らしさより、自分らしさだ」と言っていたり、鬼束ちひろがROCKIN’ON JAPANの連載で「バイセクシャルになりたかった」と書いていたり。
とりわけアーティストと言われる人が、文化的性差のような下らない固定観念にこだわる理由は全くないはずだ。
また、自分のアイデンティティの問題、「自分は誰なのか?」という問題を真剣に掘り下げれば、必ず、「なぜ女は女らしく、男は男らしく生きなきゃいけないのか?」という問題に突き当たるはずだ。
でも柴田淳は、この点に躓いていないように見える。
「ぼく」という一人称を歌詞によく使うにもかかわらず、柴田淳の歌詞には、男性性と女性性がきれいに書き分けられている。
ただ、最近の曲に比べると、昔の柴田淳の歌詞は、より「ジェンダー・フリー」だった気がする。
シングルだけ拾ってみると、『ぼくの味方』『それでも来た道』『ため息』の「僕」はかなり「女々しい」。女性でもおかしくないくらいだ。
『月光浴』『紅蓮の月』は、「あなた」「君」と2種類の二人称が同時に登場するトランスジェンダーな歌詞だ。
『未成年』の「ぼくら」は性別にかかわらず、孤独な若さを象徴している。『ちいさなぼくへ』も幼いころの自分に語りかける歌詞で、性別にこだわらない。
『白い世界』の「僕」も性別を超えて、人間の存在のはかなさを語っている。『花吹雪』は卒業式ソングなので性別に無関係。
最近の曲になればなるほど、柴田淳の歌詞は「男らしさ」「女らしさ」の固定観念がはっきりしてくる。
『ゴーストライター』を見てみよう。
『救世主』には、「黒い髪を掻き上げて」という即物的な歌詞が出て来て、「私」の性別が女性だと確定する。ただし「救世主」の性別が明確でない点は素晴らしい。
『透明光速で会いに行く』には「メイクもオシャレも大丈夫!」などという、とっても恥ずかしい歌詞が出てくる。
こういう歌詞はドリカムにでも書かせておけばいい。柴田淳の書くべき歌詞ではない。
『Love Letter』の二人称は一貫して「あなた」であり、「煙草の火」という単語が出てきた時点で、ほぼ性別が確定する。
『蝶』も二人称は一貫して「あなた」だが、これは例の情念系バラード系列の曲なのでよい。『宿り木』も『幸福な人生』も、一人称は「私」、二人称は「あなた」で性差が鮮明。
『君にしかわからない歌』は一人称が「私」で二人称が「君」なので、女性歌手から聴き手へのメッセージであることがはっきりする。
ということで、『雨』だけが残った。『雨』に登場する「ぼく」は、昔の柴田淳の曲によく登場した、かなり女々しい男の子だし、女の子でもおかしくない。
ジェンダーの問題だけで、かなり長々と書いてしまったが、それでも僕は柴田淳の歌詞は、いまのJ-POPの歌詞の中ではクオリティが段違いに高いと思う。
僕が歌詞のクオリティを判断するときの規準は、高橋源一郎の小説『さようなら、ギャングたち』だ。

世間ではこの小説は小説ということになっているが、じっさいには現代詩だからだ。
高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』は、日本語には、感情に直接うったえかける単語を使わなくても、涙を流すほど人を感動させる力がある、ということを、僕らに教えてくれる。
今まで聴いたJ-POPの歌詞で、この基準に限りなく近いのが、鬼束ちひろの活動休止前の楽曲の歌詞だ。
「鼓動を横切る影が/また誰かの仮面を剥ぎ取ってしまう」
(『infection』より)
まったく意味不明だが、誰かのせいで何かを失った切実な喪失感は伝わってくる。
今日、たまたまテレビ朝日『ミュージック・ステーション』を見ていたのだが、夏にバーベキューをするのが、二人の大切な思い出だという内容の歌詞の曲が、2曲も出てきた。
某男性デュオの『春夏秋冬』と、仮面ライダーとヘキサゴンつながりの男性タレントの『いちょう』だが、この手のJ-POPの歌詞は、はっきり言ってクズだ。この想像力や語彙の貧困さは救いようがない。
でも、こういう曲がヒットするJ-POP業界のリスナーは、こういう曲と同じくらい質の低いリスナーばかり、ということである。
柴田淳の歌詞は、こういうクズみたいなJ-POPの歌詞とは格が違う。だから僕は柴田淳のファンなのだし、ファンクラブにも入るくらいだし、柴田淳のシングルを全曲カバーしてYouTubeにアップするくらい、彼女の曲を愛しているのだ。
でも『ゴーストライター』に関しては、『うちうのほうそく』の歌詞を聴いた瞬間、完全に萎えてしまった。
柴田淳なら、おなじ「宇宙規模の法則」を書くなら、たとえば、次のようなことを「うちうのほうそく」にしてほしかった。
・足の指の爪を切るとき、かならず小指から切る
・アイスコーヒーに浮かぶ氷をストローで吹いて穴をあける
・長袖のセーターをたたむとき、左の袖を下にする
・横断歩道をわたるとき、黒いアスファルトばかり踏む
まあ、素人の僕が考えることなので、出来は悪いが、少なくとも「男らしさ」「女らしさ」といった退屈な固定観念よりはましだろう。
年齢のせいなのかもしれないが、柴田淳の歌詞がますます「男らしさ」「女らしさ」の文化的性差に縛られた内容になるとすれば、僕は彼女の紡ぎ出す美しいメロディーと、彼女の透明な声だけを愛することにする。
以上、『ゴーストライター』のレビュー2回目。歌詞に関してでした。
(3回目につづく)