ツイッターで「何ができないか」を書いてくれ!

ツイッターはすごい!すごい!と称賛する記事が、最近やたらと目立つ。
IT業界って「Web2.0はすごい!」「オープンソースの電話交換ソフトはすごい!」「twitterはすごい!」などなど、素朴な新しモノ好きの、浅はかな発言があとを絶たない。
その背後に何があるのか、考えてみると、一人の人間が使えるリソースは有限だ、という認識が欠けていることだ。
ここでいうリソースとは、時間、知能、知識、体力、人脈、性格、信念などなど、僕らが日常生活をするときに、意識して、あるいは無意識に利用している、あらゆるものを含むことにする。
例えば、一人の人間が使える時間、知識、体力は、言うまでもなく有限だ。違法なクスリでも使えば、ちょっとは増やせるかもしれないが(笑)。
個人の性格や信念といったものも、そう簡単には変わらないという意味で有限と見なせる。
性格や信念といったものは、その人の持っている人脈など、周囲の環境や人々とどのように接し、どのような結果を出すかを、大きく左右する。
そして、これらのリソースは、人によって大きな差がある。
例としてあげるのは申し訳ないが、瀕死の状態の方もいるし、そこそこ健康な人もいるし、健康でも他人と適切な意思疎通ができない人もいるし、天才と呼びたくなるような人もいるし、などなど…。
「twitterはすごい!」と能天気に書いてしまう素朴な新しモノ好きには、人々の間にある、こうした残酷なリソースの格差が見えていない。
「twitterは面白い!」と能天気に書く人は、そう書いているとき、自分と同じようにtwitterを楽しんでいる人々のことしか考えていないという、自分の認識範囲(これも一つのリソースである)の限界を忘れてしまっている。
Web2.0でもtwitterでも何でもいいのだが、何かをすごい!と言うためには、まず自分のリソースの限界を認識し、それによって、Web2.0やtwitterの限界を語る必要がある。
つまり、「twitterで何ができるか」をいくら訴えたところで、「それはあんたが×××だからでしょ」と、発言者自身の持っているリソースの限界を指さされておしまいだ。
そうではなく、「twitterで何ができないか」をできるだけ細かく記述するのが、適切なtwitterの論じ方である。
Web2.0など、他の新しモノについても同じことだ。
「それを使って何ができるか」ばかりを、自分の知識や見識といったリソースの限界を棚に上げて書き連ねても、まったく説得力がない。
(梅田望夫や勝間和代やITProの記者は、自分の肩書、バックグラウンド、過去の実績などが、自分の書くものに自動的に権威をあたえてくれるとでも思っているのだろうか?)
「それを使っても何ができないか」を記述するには、「それ」(Web2.0でもttwitterでも何でもいい)について、まず「疑う」必要がある。
「疑う」という作業は、人間が本質的にかかえているリソースの有限性を、克服とは言わないまでも、相対化する唯一の手段だ。
そもそも人間はいつかは必ず死ぬ。人間にとって時間というリソースは絶対的に有限である。
本質的に有限な存在である人間が、「疑う」ことを忘れるのは、致命的な誤りだ。
だから僕は、梅田望夫や勝間和代のような「疑う」ことを知らない人々の意見を批判する。
彼らのような人々が言っていることを聞いたら「何ができるか」を記述するのではなく、彼らの言っていることを聞いても「何ができないか」を記述する。
それが、任意の対象について、有限な存在である人間として、より適切な語り方なのだ。
だから、twitterにのめりこんでいる人には、twitterで「何ができないか」を責任をもって記述して欲しいものだ。
特に記者を職業とする人には、ナイーブな礼賛記事を読ませて、読者の有限な時間をムダにさせないでほしい。