梅田望夫氏は、すでに過去の人物である

読者の方から、梅田望夫がまたおかしなことをしゃべっているというメールを頂いた。
『日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く』というIT Media Newsのインタビュー記事だ。
このインタビューの中で梅田望夫氏は、中川淳一郎著『ウェブはバカと暇人のもの』(光文社新書)を「まだ全部は読んでいない」が、「彼の書き方はフェアだ」と感じていると話している。
中川淳一郎氏は『ウェブはバカと暇人のもの』の中で、梅田望夫の『ウェブ進化論』は「頭の良い人の世界」であり、自分が書くのは「普通の人とばかな人の世界」だと明記している。
梅田望夫氏は、この点を「彼の書き方はフェアだ」と言っているのだろう。
しかし、これを読むにつけても、梅田望夫という人物は、どこまで無自覚なエリートなんだろうかと実感する。(まさに勝間和代氏のように)
中川淳一郎氏の議論が「フェア」なら、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』はまったく「フェア」ではない。
『ウェブ進化論』は、普通に読めば、インターネットは、より多くの人に、情報資産の共同産出の機会を均等に与えると書いてある。多くの人がインターネットに参加することで、より良い社会が実現されるという希望の書として書かれている。
だから「進化」や「革命」といった、ナイーブな弁証法的歴史観(=歴史は失敗をくりかえしながらも、だんだんと良い方向へ発展していくと信じる考え方)を連想させる言葉が使われている。
梅田望夫氏はそれを今になって、「あの『ウェブ進化論』は、たしかにごく一部の頭の良い人たちについて書いたものだった」と、あっさり認めているのだ。
仮に、『ウェブ進化論』を書いた当時、梅田望夫氏が、ネットの進化によって、「バカと暇人」が「頭の良い人」に進化する可能性があると信じていたのだとしたら、梅田望夫氏のナイーブさには言葉を失う。
そうではなく、梅田望夫氏が、無意識のうちに「頭の良い人」たちだけを想定して『ウェブ進化論』を書いたのだとしたら、やはりそのナイーブさには言葉を失う。
この場合、もう梅田望夫氏の発言は傾聴に値しない。所詮、エリートの自己満足に過ぎないからだ。自分がエリートであることを自覚していないエリートの発言は、中川淳一郎氏のいう「バカと暇人」のネットへの無反省な書き込みと大差ない。
3つめの仮定として、梅田望夫氏が、実は「頭の良い人」たちだけを想定しつつも、まるで「バカや暇人」も参加できるかのような扇動として『ウェブ進化論』を書いたのだとしたら、悪意を感じざるを得ないだろう。
つまり、若者に対して「夢をあきらめるな!」と扇動して、大量のフリーターや派遣労働者を生みだすのと大差ないということだ。
まぁでも、梅田望夫氏は、すでに過去の人である。
日本のまともなインターネット観察者は、梅田望夫氏が、実は単なるアメリカかぶれの「とんでも批評家」の部類に入る書き手であることを分かっている。
『ウェブ進化論』も、小泉・竹中改革の生んだ格差社会の、インターネットにおける追認作業だと総括してしまえば、すでに過去の遺物、歴史的文献である。
ITMediaを含むネットメディアや出版業界も、これからは梅田望夫氏をあまりまともに取り上げないだろう。
氏の発言は、何の批判的切り口もない、単なる「頭の良い人」の自己満足であることが、すでに明らかになってしまったのだし、梅田望夫氏自身、それを認めているのだから。