「think or die」の由来と、鬼束ちひろ『育つ雑草』の歌詞

この「愛と苦悩の日記」の元になった親サイト「think or die」は、某大手電機メーカーの名古屋工場勤務で、名古屋に住んでいたとき、たまたま矢場町で見つけた、Dreams Come Trueの1997年発売のアルバム『SING OR DIE』の広告と、高校時代に勉強を始めたフッサール現象学のもとになった、デカルトの有名な「考えるゆえにわれあり(cogito ergo sum)」という言葉を組み合わせて、筆者が勝手に作った。
cogito ergo sumは、自分の存在を証明する唯一の根拠は、自分がいったい存在するのかどうか考えているという事実認識を否定できないことだ、という、だいたいそんな意味だ。
それを裏返せば、自分が考えているという事実がなくなれば、自分は単純に存在しなくなるというわけではなく、存在するか否かという問いそのものが存在しなくなる。
実際、自分自身の死というのはそんなもので、人間は自分が死んだという事実を認識することはできない。自分が死んだという事実を認識するには、生きていなければいけないからだ。
なので、考えるという行為の事実と、死という事実は、主観的には論理階層が異なっていて、第三者の目から見たときにしか、排他的にならない。だから「think or die」の「or」は、本当はおかしい。
...てなことは、どうでもよくて、今日書きたかったのは、最近はどうも「think or die」ではなくて、本当に「sing or die」になって来ちゃってる、ということだ。
歌がなければ生きていけないというか、僕の歌の上手さなんて、プロの歌手と比べれば「屁」みたいなレベルだ。
年齢的にも、これから劇的に歌が上手くなるなんてことはありえない。ただ自分の慰みに歌っているだけなので、逆に、声帯をささえる筋肉は衰える一方だろう。
歌を単なる趣味にできるというのは、プロの歌手ではなく、単なる「歌好き」の特権だ。
例えば、鬼束ちひろの『育つ雑草』の歌詞なんかを読んでいると、あらゆる意味で歌しかない、プロの歌手が置かれている立場の残酷さを感じさせられる。
柴田淳も最近のブログか日記で、同じようなことを書いていた。プロの歌手は歌えなくなったらそこでおしまいだと。
プロの歌手にとって「sing or die」は、直接、生活がかかっていることを意味する。
「悲劇の幕開け
花のようには暮らせない
食べていくのには
稼がなきゃならない 圧迫的に」
(鬼束ちひろ『育つ雑草』より)
歌手って、好きなことを仕事にできてうらやましいですねぇ、などといった生易しい境遇では決してないということだ。
では、会社員、というか、好きな事を仕事にできなかった人たち一般って何だろう。
イヤなことを仕事にして稼ぎながら、余ったわずかな時間で好きなことをして生きていくということだ。
そして、生きることに理由を求めるなら、その余ったわずかな時間でしかできない「好きなこと」でしかありえない。
「生きる理由」の物質的な基盤を維持するために、「生きる理由」に割り当てる時間を仕事で食いつぶす。
これって、冷静に考えると、全くバカげている。
「生きる理由」のための労力や時間を削らなければ、「生きる理由」を存続できず、「生きる理由」のための労力や時間を削れば削るほど、「生きる理由」を実行するための余裕が生まれるという、完全な矛盾があるからだ。
僕はいったい何を書きたいのだろう。よく分からなくなってきた。
というより、明日も仕事なので、そろそろこの楽しい作業をやめる必要がある。
「食べていくのには/稼がなきゃならない」し、そのためには、「圧迫的に」楽しい時間を削らなければいけない。
全くバカげている。