NHK朝の連ドラ『つばさ』はやっぱりすごい

やっぱり、現在放送中のNHKの朝の連続テレビ小説『つばさ』は、近年にない佳作だ。前回のNHK大阪制作の『だんだん』とは大違いだ。
ご承知のように、朝の連続テレビ小説は、NHK大阪と東京が交代で制作している。
たぶん、NHK大阪は、喜劇を作っても、『だんだん』のようなシリアスなドラマを作っても、ベタベタにしか作れないのだろう。
それに対して、NHK東京は、前回の『瞳』はベタベタだったけれど、今回の『つばさ』は、『だんだん』のような作品が大真面目にやっていることを、客観的にネタとして利用しながらも、じっくり泣かせるベタベタな部分も並存させることで、絶妙のバランスをとっている。
まず演出技法のレベルで、飽きさせない。
長まわしでは、第11週放送分「愛の複雑骨折」の、小料理屋で中村梅雀と井上和香が語るシーン。カメラがゆっくりトラックで左から右へ動いていくカット。
それから、病院の廊下で、多部未華子と吉田桂子が話しながら歩いてくるのをズームでとらえたカット。多部未華子が丸めたポスターを一つだけ落としたのは、たぶん本当はNGなのを、吉田桂子がセリフを話しながら、それを自然に拾って多部未華子に返したのでOKになったと思われる。
群衆シーンの広角俯瞰カットもいい。
イッセー尾形が演じる「ラジオの男」の登場や、第9週「魔法の木の下で」の最後で、宅間孝行演じるラジオ局の社長の、死んだ妻が実像になって登場する演出。
そして、屋内に桜の花びらが舞い散る演出、突然どこからともなくサンバのダンサーたちが登場する演出などなどは、あえて小劇場的な舞台演出を引用している。
そして、一見無意味な小道具の使い方も絶妙。
移転する前の「甘玉堂」の裏庭にあった、何の意味があるのかわからないトロッコみたいな台車。
全般的には、マンガ的な遊びのシーンと、じっくり見せるシーンのメリハリが効いているのが良い。
マンガ的な遊びのシーンでは、西城秀樹が演じる「街の顔役」の登場が、毎回笑わせてくれる。西城秀樹を、まさに1970年代の西城秀樹的に演じさせるなんて、斬新。
テーマの面でも優れている。
一方では「甘玉堂」とそのご近所さんを中心とする、昔ながらの地域コミュニティーが描かれている。
そこでは、誰かが耳にしたニュースは、あっという間に広まってしまう、『サザエさん』的な濃厚な地域コミュニティーがまだ生きている。
ただし、今の川越にこの通りの濃厚な地域コミュニティーが生き残っているとは思えない。
このドラマでは、実在しない「ラジオの男」が画面に登場するように、あえて実在しない濃厚な地域コミュニティーが描かれている。
それと対比的なのが、「ラジオぽてと」というコミュニティーだ。

松本明子演じる「明るい」母子家庭の母親、社長も妻を病気で失っているし、脇知弘が演じる芸人は相方を失っている。ROLLY演じる浪岡正太郎も、家族との関係が描かれないまま、ミュージシャンとしての夢を失った対人コミュニケーションん不得手なロッカーとして描かれる。
この「ラジオぽてと」というラジオ局は、何かを失っている人々が作っている疑似家族であり、新しいコミュニティーの象徴として描かれている。
今はもう実在しない濃厚な地域コミュニティーと、その代替の可能性としての疑似家族的なコミュニティーを、並存させている点が、この『つばさ』というドラマの、テーマの面での現代性だと思う。
多部未華子が演じる主人公の「つばさ」は、切れてしまった人と人との関係性を回復させる役回りになっている。

この『つばさ』がNHKの連続テレビ小説らしいところを残しているとすれば、主人公の「つばさ」が、毎週毎週、ちゃんと人と人との関係性を回復していくハッピーエンドになっている点だろう。
ただ、このドラマが基本的にハッピーエンドである点も、脚本の中ですでに相対化されている。
たしか第9週「魔法の木の下で」だったと思うが、高畑淳子が演じる「つばさ」の母親に、やっぱり物語はハッピーエンドじゃなきゃ、というセリフを言わせていた。
このセリフからもわかるように、『つばさ』というドラマは、実は隅々まで自己言及的、再帰的な構造をもっている。
ただふざけているのではなく、あえてふざけているのであり、ただしんみりしているのではなく、あえてしんみりしているのだ。
その自己言及的な演出が、僕のような1970年代生まれの世代の視聴者であっても、白けさせない結果を生み出している。
...ちょっとほめすぎか。