柴田淳の歌詞における「いま」の宙吊りについて

やっぱり柴田淳はいい。中島美嘉の次にハマるアーティストが決まった。柴田淳。間違いなく柴田淳。
とりあえず最新アルバムの『親愛なる君へ』にどっぷりつかっている。並行して『Single Colletion』も。
当然全ての作詞作曲、インストのピアノ曲も含め、彼女自身の作品。
メロディーの美しさについては先日少し書いたので、今日は今までじっくり聴いた曲に関する限りで気づいた、柴田淳の歌詞の特徴について書きたい。
それは「いま」が存在しないこと。
歌詞というものは、「いま」この瞬間の気持ちを引き伸ばして表現したもの、「いま」という地点から過去を振り返ったもの、「いま」という地点から未来を展望したもの、またはそれらの組み合わせになっているものがある。
そして歌詞に書かれているその「いま」自体が、過去の場合もあれば、現在の場合もあれば、未来の場合もある。
例えば、最近ヒットしているアンジェラ・アキの『手紙 ~拝啓 十五の君へ~』。
過去を「いま」に設定した十五歳の自分が、未来を展望する部分と、現在を「いま」に設定した現在の自分が、過去の十五歳の自分を振り返る部分の組み合わせでできている。
しかし、十五歳の自分に語る現在の自分が登場している時点で、この歌詞全体は、あくまで現在を「いま」に設定して、過去を振り返る歌詞だ。
また、純粋なラブソングのほとんどは、現在を「いま」に設定して、「いま」のこの気持ちを延々と歌う、引き伸ばされた「いま」という構造をもっている。
いずれにせよ、歌詞の中で、「いま」の設定が過去なのか、現在なのか、未来なのかを特定しやすい。
ところが、柴田淳の歌詞は「いま」が特定しづらい。
たとえば「君へ」だが、僕の理解する限り、この歌詞に登場する「僕」はすでに他界している。歌詞のほとんどが現在を「いま」とする過去の「君」との想い出の回想で、最後の部分は次のようになっている。
「笑顔がよく似合う 君が好きだったから
いつまでも笑っていてね 空見上げて
運命の相手が君だったら…って 何度も思った
君を愛してよかった
空の彼方 片想いしてるよ
願うのは 早く君に
こぼれ落ちる涙が消えることだけ…」
恋人を亡くして空を見上げて涙に暮れている「君」に、「僕」が空の上から呼びかける美しい歌詞だが、問題は冒頭部分だ。
「この空を見上げるのは あとどのくらいだろう
見上げる君に手を振って 笑う日はいつの日か」
僕の国語力不足かもしれないが、この冒頭部分は次のように解釈できる。
まだ死んでいない「僕」が、空を見上げながら、こう考えているのだ。
自分が「この空」に昇った後、つまり死んだ後、「君」との別れを嘆き悲しんだ末に、ようやくまだ生きている「君」にむかって、笑って手を振れるようになるかもしれないけど、それはいったい、いつのことだろう...。
つまり、「僕」はまだ死んでいない。しかも、「僕」はすでに死んでいるかもしれないのに、まだ死んでいないという”矛盾”は、歌詞を最後まで聞かないと分からない。
そういう「仕掛け」になっている。
たぶん柴田淳はそこまで考えて書いていないだろうけれど、この歌詞の中では、「いま」がどこに設定されているかを特定することができないのだ。
これほど繊細な歌詞の曲は、ちょっと今まで聴いたことがない。
詞も良い。曲も良い。中島美嘉の「声」を聴くまで柴田淳に気づいていなかった僕が悔しい。
でも「声」というアルバムの中の一曲を聴くほど中島美嘉にのめり込まなければ、柴田淳にも出逢えなかったということは、むしろそこまで引きずり込んでくれた中島美嘉に感謝しなければ。